第1章 3



     『』が異世界語・「」が日本語



 道に迷ってはいけないので、ためらいはあったものの腰の長剣を鞘から抜き、木の幹に傷をつけながら目印をつけていく。
 時計がないから正確には分からないが、感覚にして10分も歩いた頃だろうか。川音が大きくなり木々が拓いて思ったとおり豊かに流れる川辺にたどり着いた。
 そんなに大きな川ではないが、この川を水源にして川下に歩けばいつかは民家があるに違いない。
 達樹は三姉妹神からの情報で、この世界の人々がいまだ中世の古き良き暮らしをしているのを学んだ。
 だからこそ、達樹自身は東京生まれの都会っ子でありながら、夢のなかでサバイバル精神を培っていた。


 岸辺にしゃがみ、小魚が泳ぐさまが川底まで透けて見えるほど、清く澄んだ川の水に両手を浸すと、その心地よい冷たさに達樹はなんだか感動を覚える。
(ああ、俺、本当に異世界ってところに来たんだ・・・!!)
 視覚だけでなくこうして感覚でも体感すると、ようやくにして夢の世界が現実になったんだと思えてきたのだ。
 そのままぱしゃぱしゃと水で顔を洗う。川面に映る黒瞳の大きな美少年がいまの自分の顔だとは・・・信じたくないのであまり見ないようにしたが。
 気候は日本でいう初夏くらいだろうか。
 日差しは暖かく、木陰にいても寒くないくらいの気温はあるのだが、かといって汗ばむような湿気がない。とにかく過ごしやすい土地だという女神の言葉は嘘ではなかった。この分なら、何日か野宿をしても風邪など引くことはないだろう。
 ユーラとリーラに面白く飾り立てられた首飾りだの指輪だのの宝石を売っ払えば当面の路銀も作れる。
 外見を汚すな、とは言われたが、野まず食わずで病気になっては元も子もないのだからそれくらいは許してもらおう。
 ぴしゃり、と達樹は手のひらについた雫を払った。

(俺は、ここでやらなきゃならない使命があるんだ)
 ユーフィールを守護する女神の使いとして、達樹はこの地に降り立ったのだ。
 この王国を救うべく神子として。






 ―――ユーフィール国のリサーク王家開闢(かいびゃく)の歴史は500年を迎えるが、建国の時より信仰されてきた三姉妹神への王家の関心が、第28代国王カインベルクの治世になって急激に薄れてきてしまっている。

 カインベルクは騎士団の統制と発展に強く力を注ぎ、神殿への帰依よりも武力により国の礎を磐石にすることに熱心であった。
 王は20年前、23歳の若さで即位したときからその傾向があった。
 再三再四の神官たちの苦言を跳ね除けて自由奔放に彼好みの為政をしいてやまない。
 そしてそれが、三姉妹神はじつに気に入らないところであった。

 500年もの長きに渡り王国が存続しているのは彼女らの加護があってこそ。その彼女たちを誰よりも篤く崇め奉らなければならないはずの国王が、神殿をないがしろにしているのだ。
 王ばかりでなく、10年前、16歳で立太子した第一王子をはじめとする彼の五人の子供たちにもその傾向が見える。
 ハリア大陸随一の大国ユーフィール王国を守護しているという三姉妹神の、女神としての自尊心は恐ろしく高い。
 だが、信仰もないのに加護を与えることはできず、かといっていまさらユーフィールほどの大国の守護神であることを放棄するには、その高い自尊心が許さなかった。
 長い王家の歴史を見てきた彼女たちには、リサーク家の王族たちにそれなりに愛着もある。
 だからこそ、彼らを守るために、500年まえより変わらない信仰心が必要なのだ。

 女神たちのひそかな焦りを他の神々に知られれば、馬鹿にされるのは必至だった。
 大国の守護は手に負えなかったかと揶揄されるなど、想像するだけで我慢がならないのだと、達樹は夢のなかで耳にたこができるほど聞かされた。(またその度に八つ当たりされてひどい目にあった。)
 といって、神々の決まりにより、女神たちが直接下界に赴いて姿を現すことは禁じられているのだそうだ。
 これは彼女たちだけに係わらず、ほかの神々もやはり、彼らの守護するそれぞれの王家への直接的な関与を禁じられている。
 ゆえに、神々は自分たちの使いとして神子を降ろす。
 神々の奇跡を伝える存在として。
 神は常に人の世を見下ろしているのだと、知らしめるために―――。


 そして、三姉妹神は達樹を夢のなかで育て、この世界へと連れてきた。
 彼女たちの存在の伝道者として、王家へ信仰の復活を促させる。
 それが、達樹のこの世界での使命であった。
 ―――よくよく考えてみれば、王国の救済というよりは、女神たちの自尊心の救済、なのであるが・・・。





「しっかし・・・俺にあるのはこの世界の知識だけで、肝心のコネはないんだよな。信仰を復活させるったって・・・俺が神子だって証拠はどこにもないんだしさあ・・・」
 具体的な足がかりの手ほどきは授けてもらっていない。そんなことは自分で考えろと、女神さまはお考えなのだろう。
 つまり、達樹はこれから手探りで行動を起こさなくてなならないということだ。
「どうすっかなあ・・・。とりあえずはオーソドックスに、まあ駄目もとで神殿に行って、神子でーすってやればいいかなあ。いきなり王宮に乗り込んでいって神子でーすってやっても、怪しいだけだもんなあ」
 怪しいで放り出されればいいが、下手をすれば捕らえられて、それでもって死刑! とかなってはたまらない。
(ぎゃあああ! それだけはやだ!!!)
「でもなあ、神子でーすっていうの、恥ずかしい気がすんだよなあ。いや、絶対恥ずかしいって! ファンタジーすぎるって!! やばいって!!」
 わしゃわしゃと頭をかきむしって溜め息をつく。
 その髪のさらさらとした絹糸のごとき手触り。まったくサーラさまはとんでもないことを一般男子高校生にしてくれたものだ。
 もう、なにもかもが恥ずかしい。せめてもとの姿に戻りたい。



 達樹がその後も悶々と恥ずかしさにのたうっていたとき。
 突如、森の奥で馬のいななきが聞こえた。
 否、奥ではない。
 方角的には、たった今、達樹がこの川辺までやってきた、その方向―――。

「リーマン!!」

 達樹はギクリとして立ち上がり、すぐに走り出した。
 木の幹を傷つけて作った目印を横目に、あの場に置き去りにしてきた青年の土気色の顔が脳裏に浮かぶ。
 すぐに戻ると言っておいて、俺はいったいどれほど川辺にしゃがみこんでいた?
 この森に誰もやって来ないなんて保障はないのに!
 馬のいななきは一頭だけのものではなかった。
 何人かが近くにいる。
(そいつらが、安全とは限らない)
 その証拠に、達樹を美少年に変えた女神は、貞操を守れと剣技と神剣を与えたではないか。



 つまりは、この世界はそういうことだ。
 神子といえども危険がある。



 まろぶように駆けつけて、木々を抜け、青年が待つはずのその場所にようやく戻ってきた達樹は―――。
「・・・!!!」
 なにか争ったように荒らされた、馬たちの蹄の跡の残る地面と、青年が座っていた辺り、誰もいない草の上に広がる、生々しく赤い血痕を前に、呆然と立ちすくんだ。








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