第1章 5



    『』が異世界語・「」が日本語



(―――ここは)
 天国か。
 いや、会社にあれほどの損害を出してしまったのだから、地獄か。
 まあ・・・どっちにしてもあの世なのには変わりはないか。


 どうせ僕は死んだのだから。







 有田総司(ありたそうじ)が二度目に意識を取り戻したとき、彼の人生でただの一度もお目にかかったことのない豪奢な特大ベッドに寝かされていて、目覚めてまず見えたのがそのベッドの周囲に幾重にも垂らされた薄物の白い天蓋だったとしても、もう驚いたりはしなかった。


 さっき、野外で目覚めたときにはひどい頭痛があったが、今度は大丈夫なようだった。
(それにしても、あの世っていうのは結構リアルなんだな・・・。痛みとか、触感とか、なんかいろんな感覚みたいなのは、生きてるときと変わんないみたいだ。)
 起き抜けのぼんやりとした顔で、総司はのん気に思考を巡らす。
(不思議だなあ・・・僕、純粋な日本人で、先祖代々の仏教徒なのに。死後の世界は洋風だ)
 さわさわと、羽根のように軽々とした天蓋の布地が微風に波打つさまを眺めながら、総司はそんなことを考えていた。



 総司は兜町にある中堅証券会社の営業マンである。
 一浪と、学生時代に一年間のカナダ留学のために休学したため、入社四年目で今年28歳になる。
 こつこつと真面目に働く以外、これといって面白味のない性格だと自覚している。
 自宅と会社を往復するだけの毎日で、趣味もないし彼女もいない。
 特技といえば名刺交換くらいだろうか。
 あんまり堅い性格が災いして、接待で訪れるキャバクラの女の子に逆セクハラを受けることがしょっちゅうあることくらいは変わっているかもしれないが、その他においては当たり障りのない平凡な人生を歩んでいる、普通の、どちらかといえば地味な部類の男である。
 学生時代の成績も会社の成績も、可もなく不可もなく、という何事においても中庸を行く、それが有田総司という人間のはずだった。


 そんな彼の人生がつまづいてしまったのは、半年前にあの客に会ってから・・・いや、懇意にしてもらっていた会社の先輩が独立して退社した一年前から始まっていたのだと、今になっては思う。
 証券アナリストとして独立した野心家の先輩がつながっていた顧客が、じつは暴力団関係の人間だったのは総司はまったく知らされていなかった。
(人生最期の一ヶ月は、いろいろあったなあ・・・)
 インサイダー取引の発覚、強制捜査、損害賠償、損失補填・・・。
 結局わけがわからないまま、嵐の大海に巻き込まれた一艘の小船のようになすすべくもなく翻弄され、いつのまにか総司は世間を騒がせた一大証券業界スキャンダルの主犯格の人間のようにマスコミに祭り上げられてしまっていた。
 いまだに総司は本当に騙されたのかどうかもよく理解していない。
 自分の何がいけなかったのだろう?
 考えるのは、ただそれだけだがそれすら思考がまとまらない。
 胃に穴が開いて、もともと痩せ気味だった体重はさらに7キロも落ちた。


 遺書を持って30階建てのオフィスビルの屋上に上ったのが昨夜のことだ。
 スモッグのせいで満月さえなんだか薄ぼんやりしていて、その姿を思わず自分に重ね合わせてやるせなくなった。
 どれくらい時間が経ったか、すでに深夜の3時を回る頃になって、総司は手に持っていたはずの遺書がいつのまにか無くなっているのに気付いた。
 風に飛ばされたか。
 ―――ああ、書き直さなくては。
 そのときは、とっさにそう思ってしまったのだ。
 よくよく考えれば、ただ死ぬだけならば遺書などなくても命は絶てるはずなのに、自殺イコール遺書と直結した考えを疑いもしなかったのは、やはり真面目すぎる総司の性格のせいだろう。


 ふらふらと覚束ない足取りで屋上を出てビルの玄関をくぐると、真夜中のオフィス街、その通りには一人の人影もなかった。
 昼間の喧騒が幻であるかのように、とにかく静寂で、まるで地球上に自分ひとりが取り残されたような感覚がして、たった今、死のうとしていた総司の空虚な胸のうちに、さらに寂寥感が増した。


 見上げたのは何気なくだった。
 たった今、自分が落ちようとしていたビルの上空から降ってくる何かがあった。
(―――人?)
 目が合った。
 思った瞬間、まるでひどい貧血を起こしたときのように、視界がブラックアウトし、足元の感覚を失った。
 それきり、記憶がない。








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