第1章 6 『』が異世界語・「」が日本語 鈍器で何度も強打されているかのような、強烈な頭痛とともに目が覚めて、真夜中の兜町からいきなりさわやかな木漏れ日注ぐ緑の眩しい森のなかに移動していたと気付いたとき、総司はまったく動揺しなかった。 ああ、僕は死んだんだな。 そう心で呟くと、むしろすとんと憑き物が落ちるみたいにすっきりしたのだ。 その証拠に、総司の目のまえには、間近に寄られるだけで照れて赤面してしまうくらいの極上の天使がいたのだから。 美少女とも美少年とも見える、中性的な、まるで作り物のように完璧な美貌。 身頃の前を斜めに打ち合わせた、不思議な仕様の白い衣装の襟元からのぞく、細い喉元と華奢な鎖骨が、しゃべるたび震えるように動くのを、総司は見惚れて一言も声を返すことが出来なかった。 ―――絶対にここ、動かないでくださいね? 大きな黒い瞳で見つめられながらお願いされて、総司は素直に頷いた。 天使がどこかに行ってしまったあと、残された総司はふたたび草むらの上に身を倒した。 木々の間を抜けて森の香りがする風が彼の鼻腔をくすぐり、目をつむった総司は、 (死後の世界っていうのは、案外気持ちのいいところなんだなあ・・・) と、もう生前のなにもかも忘れて、ただ、ぼんやりと己の置かれている今の状況を受け止めることにした。 もう、なにもかもがどうでもいい。 (どうでもいいし、どうとでもなれ) 梢を揺らす風の音を聞きながら、他にはなにも考えが浮かばない。 だからだろうか。 やがて、しじまを破るかのような蹄の音に目を開けた総司のその視界に、輝くような黄金の毛皮をまとった立派な牡鹿が飛び込んできたときも、総司はたいして驚きはしなかった。 その牡鹿を追い、騎馬の集団が総司を取り囲んだときも、総司は黙ってその騎乗の人物を見上げていた。 集団の中心にいた、ひときわ上等の身なりをした壮年の男が、総司の姿を目に捉えつつ彼のまえに足止まった牡鹿の首を、いきおい長剣で刎ねた。 生温い赤い雫が総司の総司の頬にまで跳ねてかかり、すぐそばで牡鹿の立派な体躯がどさりと倒れた。 騎馬が近づき、血に濡れた男の剣の切っ先が、今度は総司の喉元に突きつけられても、やはり、少しの恐怖も感じなかった。 だって、自分はすでに死んでいるのだから。 馬に跨ったまま長大な剣を突きつける男の腕から視線を這わせ、総司を見下ろしてくる男と見つめあった。 逆光の上に、栗色に波打つ長髪が男の顔をかくし、表情は見えない。 男は総司になにかを言ってきるようだったが、よく聞き取れないが、たぶん、自分のことを何者かと誰何でもしているのだろう。 クスリと総司が微笑むと、男が息を呑んだようだった。 もう、初対面の人間に会っても、背広の内ポケットに常備している名刺を渡さなくてもいいのだと思うと、ただなんとなく嬉しかったのだ。 だから総司は、男によって馬上に攫われ、力強い腕に抱えられるままに連れ去られてしまったときも、少しも抵抗しなかった。 頑強な男の胸に背を預ける。 目を閉じていると、いつのまにか意識は落ちていた。 総司はゆっくりとベッドの上に半身を起こしてみた。 スーツを着たまま寝かされていたために肩が凝ってしまったが、久しぶりにじっくりと眠ることができたおかげだろう、気分的にはすこぶる快調であった。 きょろきょろと周囲を見回してみる。 白い天蓋の布に透けて見える部屋の内部は、やはりベッドにふさわしい豪奢な内装であった。 どうやら石でできているらしい床や壁は、一面動物の毛皮だの大きな織物のタペストリーだので覆い尽くされている。 だだっ広い部屋にある家具はこの寝台のみで、ベッドの脇に美しい細工の椅子が一脚置いてある他には何もない。 左側の壁にはまった窓から陽光が差して室内は明るい。 四つあるその窓の一番奥がどうやら開放されていて、そこから微風がそよいでいるようだった。 身体を起こしてみたものの、これからどうすればいいのか思考が働かないまま茫然としていると、やがて右手の扉が開き、赤毛の少年が顔をのぞかせた。中学生くらいだろうか。白い頬にはそばかすが浮いている。 少年は目を覚ました総司に驚いた顔を見せ、何か言葉をかけてすぐにまた部屋を出て行ってしまった。 早口の言葉がよく聞き取れず総司が小首をかしげていると、ふたたび扉が開いた。 さきほどの少年が白髪の老人を連れてきたようだった。 シンプルな生成りのワンピースの上に、くすんだ緑色の、足首まである長い上着を羽織った、変わった格好である。 赤毛の少年も似たような格好で、こちらは生成りのワンピースの胴を細い帯でしめ、老人のものよりいくぶん質素な紺の上着を羽織っている。 老人は硬い表情で近づくと、総司に一礼してから天蓋を剥ぎ、身体ごとベッドに乗りあがると総司の右腕を持ち上げた。 手首に指を這わせ、ついでに首筋にも指先を押し付けられて、総司は脈を取られているのだと分かった。態度からしてどうやらこの老人は総司を診察しているらしい。 死んだ自分に健康もなにも関係ないのに、と思いながらも無言のままで老人のいいようにさせていると、しばらくして老医は硬い顔は崩さないままベッドを降り、また一礼してから少年とともに部屋を出て行った。 木製の重厚な扉が閉まると、部屋のなかには静寂が戻り 天蓋を揺らす風の音しか聞こえなくなる。 ようやく総司は、しわだらけの背広を脱ぎ、ネクタイを外しシャツのボタンも緩めた。 少し考えて、腰をしめつけるベルトも外してしまうと身体が楽になった。 扉の向こうにがなるような低い声が聞こえたかと思うと、乱暴にそれが開いて背の高い壮年の男が、その背後に小太りした老人や細身の若者など四人ほど引き連れてやってきた。 『―――陛下、どうぞお待ちを! 彼の者はもしや神の使いかもしれませぬ!』 『なにが神の使いだ! ロイドが脈を診たが余(よ)と同じで人の脈拍と同じであったそうだぞ? ただの人間になにを畏れることがあるのだ!』 『神子は人でござりましょうが、ですが神の使命を持った者・・・どうぞ慎重に対処くださいませ!』 『慎重だとも! この国の王である余の寝台を与えるほどにな。余の主治医まで遣わせた。だがあの男のどこが神子だというのだ? 覇気のないあのやつれた顔に神の威厳は僅かも見えぬ!』 『し、しかし彼の者のまとった見たこともない不思議な衣装・・・いきなり王宮の森の、それもあの牡鹿の前に現れたのも神の力ゆえかと・・・』 『わが国の衣装でないだけで不思議だと? 大神官たる者が痴れたことを申すな! 牡鹿を狙って森に侵入したただの賊かも知れぬのに、神の力などと・・・』 壮年の男がなにやら一方的に小太りの老人に怒鳴りつけているのを、老人が必死になだめているようであった。 二人がなにを言い合っているのか全く聞き取れないが、どうやら自分のことについて言っているのだろう。 疲れていて耳の調子がおかしいのかとも思ったが、違う。 彼らの言葉がどこの国の言葉なのか、分からないのである。 (英語じゃないのは確かだけど・・・) 詳しく聞き取ろうとじっと二人を見つめていると、壮年の男とばっちり目が合った。 この場にいる誰よりも威圧的な、貫禄ある長身。 光沢ある臙脂と黒地の長い上着を屈強な体躯に優雅に重ねて羽織った、その栗色の長髪に見覚えがある。 男の太い腕がのび、天蓋をよけ直接その明るい栗色が目に入ると、それは間違いなく、あのとき総司を馬上にさらった男のものであった。
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