第1章 16



   「」が異世界語・『』が日本語



 カインベルクはおもむろに椅子から立ち上がると、すぐ右手の窓辺に近寄り、両腕を背に組んでガラスの向こうの青空を見遣った。
 風が強いのだろう、上空の雲がくるくると幾度も形を変えながら流れている。
「・・・あれから十日。余はとくに何事もなく暮らしておるな」
「御意。恙なくお過ごしでございます」
「そちは、あれをどう思う。神官どもの言う通り、真に三姉妹神が余に苦言を申すために遣わした神子であると思うか?」
 にやりと笑いながら尋ねてくる王に、シーヴァルも小さく息をはいて肩をすくめた。こうした何気ない動作がじつに様になっている。
「それを信じるならば、私は陛下のお側で宰相などしてはおりますまい。城など捨ててとっくに神官になってございますよ。それに、陛下への苦言ならばわざわざ女神より頂かなくても私ども家臣が常に申し上げております。今更、でございましょうに。―――陛下の御世は二十年安泰でございました。それはこれからも変わりないことにございます。陛下がお生まれになったときから存じ上げているこの私が申し上げるのですから、間違いございません」
「そうだな。そちの口煩いのもずっと変わらぬ」
「左様でございますとも」
 二人は王と宰相という立場ではあれど、幼馴染みであり気の置けない友人でもある。
 言いたいことを言い合える、長い付き合いだ。
 カインベルクは今一度窓の外の青空を振り仰いでから、ゆっくりと友人を振り返った。
 七年前、宰相職を引き継いでからめっきり白髪が増えたようだ。昔から周囲の女性たちに熱のこもった瞳で見つめられながらも、少しも動じぬ涼しげな眦(まなじり)と凛とした容貌こそ変わらないが。
「―――神子でなければ処刑するとは申したが、かの者が神子であろうがなかろうが、何者であるかは調べねばならぬ」
「御意。言葉が通じませんから、本人より確認を取るのは難航しそうですが、必ずや致しましょう」
「方法はそちに任す」
「私の愚息、マーシュをかの者に付け探らせます。よろしいでしょうか?」
 マーシュは、カインベルクが総司を陵辱したときに側にいた若者である。
 シーヴァルの長男であり、今は祐筆の文官として王の側近くに仕官している。物静かで口煩くないところは父親に似なかったが、冷静かつ時に冷酷に物事を判断するところなどはそっくりだった。
「うむ。ならばかの者の部屋は、第二塔最上階に留め、階段を封鎖いたせ」
「御意」
 第二塔は、王とその家族が住まう塔である。今、総司が寝かされている国王の寝室があるのもこの塔であり、王の居室がある華やかな四階には出入りする者はほとんどなく、塔の上部へ登る階段の扉があるのもこのフロアであった。
 そこはガラス窓が嵌め殺しで、唯一の出入り口を締め切ってしまえばなかにいる者の逃げ場はない。


(まるで籠のなかの鳥のようだな)
 もっとも、鳴かぬ鳥のようだが。
 去り際に見た血に濡れた青年の青白い肢体。その、十日前の姿しかカインベルクは知らない。
 顔を枕に押し付けて、必死に声を抑えていた。
 その目蓋は最中も、事後も閉ざされたままだった。
「気が向けば、また神試しをしてやってもよい」
 今年で43歳になる国王の、子供のように無邪気な言葉に、シーヴァルはまた口を噤む努力をしなければならなかった。





 有田総司は、窓辺に立ってそこから見える広大な湖をぼんやりと眺めていた。
 穏やかに凪いだ青い湖面が、陽光を反射してキラキラと輝いていて、魚でも獲れるのだろう、白い帆を張った小船が何艘もゆっくりと漂っている。
 北陸の港町に育った総司には、日本海の荒れた海とはまったく違うその景色が物足りなくも思う。
 白く打ち付ける波の濁音と暗い海の色が、総司にとっての水辺の記憶である。だから、音もなく眼下に広がるさざ波は、まるでプラスチックでできた作り物でも見せられているようで、一種奇妙な感覚に囚われた。
 ブラウン管のなかの景色に身体ごと迷い込んでしまったような、そんな感覚は、その湖が、いつかテレビで見たチベットの青海湖に似ているせいかもしれない。
 いずれにしても、現実感の湧かない不思議な感覚のまま、総司は何時間もその湖面を静かに見下ろしているのである。



 あれから、いったいどれくらい日が経ったのだろうか?
 深い緑の瞳をした男に、何度も痛みを突きつけられた最中からの記憶がない。
 ふと夜中に意識を取り戻したとき、いつのまにか着替えさせられた夜着らしき白い衣服の布地がびっしょりと汗に濡れていたことと、引きつるほどに喉が渇ききっていたことから、高熱にうなされていたのだろうとは思った。
 目が覚めた日から一日に三度ほど医者らしきあの老人が総司を訪れ、脈を診、濁った浅黄色の苦い薬湯を持ってくるようになって、総司の記憶では今日で十日目なのだが。目覚めても朦朧としていたせいでそれも確かではない。
 最初は鉛のような倦怠感と下腹部の痛みから、寝台の上に身体を起こすことすら辛かったが、今ではこうして立ち上がり、部屋のなかを歩くことができるほどに回復した。
 だが、総司がこの部屋から外に出ることはない。
 一度何気なく扉を開けようとして赤毛の少年に必死の形相で止められて以来、なんとなくここから出てはまずいのだろうと認識した。
 駄目だというものを反抗するような気概は総司にはまったくない。
 ただ、窓を開けて外の景色を覗き見るのは大丈夫なようなので、起き上がれるようになってからは、こうして一日の大半を窓辺に寄りかかって過ごすようになった。








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