第1章 17



   「」が異世界語・『』が日本語



 風が少し強くなったような気がして、総司がゆっくりと両開きの窓を閉めたのと、赤毛の少年が粥を入れた椀を提げもって部屋に入ってくるのが同時くらいだった。


 少年が総司を椅子に腰かけるように促すのに、大人しく従う。
 巨大な寝台と椅子一脚しかなかった部屋には、いつのまにか小さな円卓が持ち込まれ、起き上がれるようになってからは寝台を降りてそこで食事を取っている。
 出される食事は総司の体調を気遣ってか、最初はほとんどお湯ばかりの重湯であったが、ようやく普通の麦粥になり、ここ三日ほどはそれに小さく刻んだ野菜が混じるようになった。鶏肉らしいものも入っていて、粥というより雑炊に近い。
『・・・いただきます』
 いつものクセで、手を合わせて挨拶をしてからスプーンを持ち上げた。



 意識をはっきりと取り戻してから気が付いたのだが、あのときの男たちばかりでなく少年とも言葉がお互いに通じていないようだった。
 もともと少年の口数は少なかったが、たまに総司に話しかける彼の言葉は、総司の聞いたことのあるどの言語とも違っていたし、また総司が少年に質問をしても、やはり言葉が理解できないようだった。
 だから、意思の疎通は身振り手振りで行われた。
 言葉が違うと習慣まで違うのか、総司の身の回りの世話の一切を甲斐甲斐しく焼いてくれる少年には悪いが、たまに戸惑うことがある。
 身に着ける服装は女物のワンピースのような貫頭衣が主流らしく、足元がスースーして覚束ない。食事のときは朝でも水で割ったワインが用意されている。
 部屋から出ない総司のために、少年は毎日盥(たらい)に張った湯を運んできて清拭をさせてくれるのだが、頭髪に関しては、洗剤を泡立てて水で流すということをせず、小麦粉のような白い粉を頭に振りかけたあと、櫛で丁寧に何度も梳いてくれていた。
 トイレは寝台の下に銀製の尿瓶が隠されてあり、日に三度、老医師が来るタイミングでそれは取り替えられるのだが、総司はいまだにこれだけが慣れなかった。



 この部屋で、総司は赤毛の少年と老医師以外の人間と会ったことはなかった。
 窓から眼下に人影を確認することはあるが、彼らが総司の姿を見上げることはない。
 この何日かをされるがままに過ごした総司は、死後の世界というところが日本とはなにもかも違う、まったく不思議な世界だということは分かった。想像していた天国とも地獄とも様子が違う。
 それとも、夢のなかにでもいるのだろうか?
 恐怖はなかった。
 言葉も通じない。寝台のほかにはなにもない不便な部屋にずっと監禁されているというのに、自殺を望むまでに追い詰められていた総司には、すでにそんな感情も失ってしまっていた。


 張り詰めていた糸が、ぷつりと切れてしまったような、そんな感じ。


(ようやく死ぬことができたから、こんなに穏やかでいられるのだろうか?)
 断罪するならば、何度でもしてくれて構わない。
 辛いことも、酷いことも、痛いことも、どんなことでも静かに受け入れられる。
 ―――あの、灰色のオフィス以外の場所ならば。
 あそこから逃げ出せたのならば、あとはどうでも良かった。
 総司はもうなにも感じない。
 自分は死んで、ようやく一人になれたのだから。
 もともと欲しいものもなにもない。
 だから、これからは喜びも怒りも悲しみも楽しみも、なにもいらない。
 川面をただよう木の葉のように、ただひっそりとしていられれば、それでいい。
 浮こうが沈もうがそこに総司の意思はなく。
 流されるままにいられれば。


 どうでもいい。
(どうでもいいんだ・・・)








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