第1章 20 「」が異世界語・『』が日本語 お帰りなさいませ殿下。と頭を下げてすばやくミヤがリヒトの外套を受け取る。慣れた手つきでマントの内側を表にして折りたたみ腕に抱えると、頭(こうべ)を垂れたままミヤは神妙にリヒトの言葉を待った。 本来ならばポーチに出て屋敷の主人であるリヒタイトを出迎えなければならないところを、達樹のハプニングでそれどころではなくなってしまっていた。屋敷を仕切る家令としては失態である。 「どうしたボクちゃん。屋敷のなかで雨でも降ったか? ―――どういうことだ、ミヤ?」 「申し訳ありません殿下。タツキさまは階段で足を滑らされたようで、そのためにバケツの湯をかぶられてしまったようです」 リヒトは達樹に対しては優しげに微笑み、しかしミヤには厳しい口調で問いただした。 「そんなことは見れば分かる。俺が聞いているのは、なぜ、タツキがバケツの湯を運んでいるのか、ということだが」 「は。それは―――」 「わ、私がお願いしたのです。どうしても、お仕事のお手伝いがしたくて・・・だから誰もお叱りにならないでください。私がみなさんに無理を言ったのですから」 (ぎゃあああ! こいつって、怒ると怖ェんだよ!) 自分の失敗のためにミヤたちが叱責されそうになり、達樹は慌てて言い訳した。 (俺が勝手にバケツを借りて! 勝手にずっこけて勝手にお湯かぶって勝手にバケツが頭に落ちてきたんだよ!!) 「全部、私のせいなのです。逆にみなさんにご迷惑をおかけしてしまいました・・・」 ゴメンなさい、みなさん! でも俺って頭はすごい丈夫みたいで、たんこぶひとつできてないよ! しばらくムッとしていた様子のリヒトだったが、達樹の潤んだ黒い瞳に見上げられて、やがてふう、と息をついた。 「・・・小間使いがしたいなど、ルクスたちに申し出たのはてっきり冗談だと思っていたんだが、どうやら本気なんだな」 「それは、もちろんですが」 (いやだって、偉い人に雇ってもらわないと偉い人に近づけないじゃんか) そしてゆくゆくは城に連れて行ってもらわなくてはならないのだから。達樹の壮大なる計画のために。 「湯の用意なんかより、おまえにはもっと大切な仕事があるだろう」 「えっ?」 (な、ななな、なに!? 大切な仕事って、もしや俺が神子だってばれてる!?) そんな素振りをした覚えはないけど!!! ひとり焦る達樹の身体を、リヒトはおもむろに片腕で抱き上げた。 (ぎゃあああ! な、なにすんだいきなり!!) 逃れようと身をよじる達樹をきつく抱きとめて、リヒトは空いた手を達樹の白いすべらかな頬に当てた。 「言い聞かせておいたはずだが、忘れてるとは、悪い子だな、ボクちゃん?」 そして、深緑の瞳を細めてにやりと笑う。 (だ! だーかーらー、そのボクちゃんっての止めろ! キモい!! み、見ろよ鳥肌がっ・・・) 「出迎えに、挨拶の言葉を忘れてるぞ。ただいま」 言うなり、リヒトは達樹の両頬にちゅっちゅっと、音を立ててキスをした。 「・・・!!」 もう、こんな洋風かぶれな行動には、大和魂な一般男子高校生には言葉も出ない。 しかもこんな人前で。 可愛い女の子の目のまえで・・・。 (このド変態! なんちゅーことを!! カリンちゃんアイネちゃん誤解しないで! 全部君たちのアホな御主人さまが悪いんだ!) と、女子二人の反応が気になってちらりと見遣ると、二人とも熱に浮かされたようにぼうっとなって達樹たちを見上げていた。 (ええ? な、なになになに? どういう反応?) びっしょりと水濡れて憂える黒髪の美少年が、己の敬愛する主人のたくましい腕に抱き上げられて頬にキスを受ける、その姿が純真な少女たちの目にはいかに絵画のごとく映っているか・・・。 まったく理解できない達樹であった。 とにかくそのままでは風邪を引くから、とリヒトはミヤに達樹の着替えを用意させ、抱き上げたまま二階の客室に連れて行った。 王位継承権第二位の王子が住まうにしてはこじんまりした屋敷である。裏手の井戸をはさんだコの字型の建物で、一階は水屋や納戸、そして使用人たちの部屋があり、主人であるリヒトの居室と客人のための客室はすべて二階にあった。 部屋自体は豪華で広いのだが、四つしかない客室のひとつを、いま達樹が使っている。 小間使いとして来たのだから使用人の男たちが使っている大部屋でいいと、達樹は最初客室を断ったのだが、リヒトをはじめ家令のミヤだけでなく、その大部屋を使用している男どもからも「頼むから二階にいてください!」と頭を下げられてしまった。 着替えのたびに匂いたつような白い肌をさらけ出され、胸の飾りでも目撃しようものなら・・・甘やかな鼻息を立てて、可愛らしく寝返りなんか打たれてしまったら・・・いつ理性がぶち切れて間違いを犯してしまうか分からない。いや、ぜったい間違いを犯す自信がある! と彼らは怖れたのだが、当の本人である美少年だけが分かっておらず、豪華な客室をひとりで占領することにはいまだに恐縮して、部屋に入るたびに「お邪魔します」と小声で断っている。 不思議だ、とリヒタイト王子は思う。 ヒューズは達樹をこの屋敷に案内してきたとき、少年の身分をもしかしたらよその大陸の外国から来た、没落した貴族か王族の子息かもしれない、とこっそりリヒトに耳打ちしていた。 達樹の身に着けていた高価な宝飾品からそう推察したらしい。 たしかにこのハリア大陸では、カインベルク王の支配が浸透していて戦争が無くなって久しいが、他の大陸ではいまだに国家間の争いが絶えない国もあるという。 そんなところから、この平和なハリア大陸へと亡命してくる貴族や王族もいないではない。しかし、そういう身分のあるものたちがまず救いを求めてやってくるのはカリフ城の王宮であり、間違ってもひとりでふらふら市井を観光気分でうろついていたりなどしないはずだ。 そこはかとなく漂う、あの美貌に相応しい優雅な品格と、やけに世間ズレした物知らずは、たしかに達樹に高い身分を疑ってみることもできる。 しかし本人に聞いても「私はただの神官見習いです」の一点張りだし、身分が高い人間にはありえない、庶民的ともとれる腰の低さが達樹にはあるのだ。 なにもかもがちぐはぐで、不思議だ。
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