第2章 1 「」が異世界語・『』が日本語 カリフ城の西に位置する広大な湖は、穏やかな湖面が空を溶かしたように澄んで青く、網を投げれば魚の豊富に獲れる美しく豊かな湖である。 過去の戦乱の世には北の大カリフ山脈、東の王家の森と並んで王城を守る城塁としての役割も果たしていたこの湖は、この地に王朝が築かれてからは、リサーク王家を守護する三姉妹神の末の女神の名を戴き、リーラ湖と呼ばれている。 由来は伝わっていないが、昔は大カリフ山脈をサーラ山、王家の森をユーラの森とそれぞれ呼ばれていたらしいから、単にリーラ湖だけが名称を変えずに残っただけであろう。 その湖にいま、ユーフィール国の王太子一家が、小さな白いボートを浮かべ、舟遊びに興じていた。 そよそよと凪いだ微風は小さく湖面を揺らし、櫂を手放した小船は岸辺から少し離れた湖上にゆったりと漂っている。 そこから、一家の楽しげな笑い声が、岸辺にて待機する近衛騎士たちや近習たちのもとにも聞こえてきていた。 第一王位継承者であるシラーゴート・カイル・イリアス・リサーク王太子が約四ヶ月ぶりに王都サンカッスに帰還したのは、十日前の昼過ぎのことであった。 南の商業都市、キリンの新しい貿易船の視察と進水式に赴いていたシラーは、王や議会への報告と王太子の無事の帰還を祝うさまざまな宴席に出席しなければならず、こうして家族とともに過ごす時間が取れるまでに十日もかかってしまった。 日光を遮るパラソルの影にクッションを敷き、エカーテ王太子妃の隣に座るシラーは、帰還してすぐに会うことのできなかった子供たちのために、誰にも邪魔されず会話のできる舟遊びを選び、久々の一家団欒をすることにしたのだった。 「ユーリとキカは、お父様が留守のあいだ、ちゃんとお母様の言うことを聞いてお利口にしていたかい?」 国王カインベルクにそっくりな茶色の長髪と深緑の瞳を持ちながら、しかしその優しい顔立ちと穏やかな性格はまったく似ることがなかったシラーは、にっこりと微笑みながら子供たちに尋ねた。 「もちろんですお父さま! ぼく、ちゃんとお利口でした。ねえお母さま?」 「そうね、ユーリもキカも、とってもお利口でしたよ」 今年6歳になるシラーの息子、ユーリアス王子が弾んだ調子で身を乗り出して応える。次いで見上げた母親に、同調を求めた。 エカーテはレースのハンカチを口元にあてて笑いながら、まだまだやんちゃな長男の頬を撫でて頷いてやった。 そんなやりとりをきょとんとした目で見上げているのは、2歳になったばかりのキカ王女である。エカーテの膝の上で、さきほどから王太子妃の銀の腰帯の刺繍を摘んだり引っ張ったりしている。 エカーテはユーリと同じようにキカの頬も撫でてやると、ふんわりと微笑んで「キカ、おりこう」と嬉しがった。 シラーがキリンに旅立ったのは昨年の籠月(かごつき)の上旬で、そのときはまだキカ王女はあまり話すことができなかった。しかし年をまたいで芽吹月(めぶきづき)の中旬になった今、たった四ヶ月離れていただけで、王女は頑是無い口調でシラーを父と呼び、たどたどしいながら会話をしようとする。子供の成長というのは目覚しいのだなと、わずか四ヶ月でも王都を離れていたのを寂しく思った。 シラーはすうっと息を大きく吸った。 ハリア大陸は広大だが、南北の気候はさほど変わらない。 しかし、やはり大陸の最南端にあるキリンとは、見上げる青空の高さも、空気の匂いも違う気がするのだ。 早駆けの馬ならば乗り継いで7日もかかるまいが、馬車での行程ならばゆうにひと月はかかる。国内全土に派遣される騎士や大陸間をも行き来する行商人でもなければ、王都の人間で遠いキリンにまで旅しようという者はあまりない。 ましてやシラーは国王の第一王子である。いくらキリンが王都に次ぐ第二の重要都市であろうと、10年まえに16歳で立太子してからは、片手に数えるほどしか行ったことがなかった。 「お父さま、キリンって、どんなところですか?」 ユーリが大きな瞳をキラキラと輝かせてシラーに尋ねた。 その深緑の瞳は直系王族特有の色彩だ。髪の色はさまざまだが、瞳の色だけは、みなまったく同じ、太古の森のような神秘的な深い緑を持って生まれてくる。 「とても大きな街だよ」 四ヶ月前より少し背の伸びた息子を引き寄せ、膝の上に乗せてやりながらシラーは答えた。 「大きいって、サンカッスよりも?」 「広さだけならば、そうだね、王都であるこのサンカッスよりも広い街はハリア大陸にはないけれど、キリンは違う意味で王都よりももっと大きな街なんだよ」 「ちがういみって?」 幼い子供らしく、分からないことを素直に聞いてくるユーリが微笑ましく、シラーは思わず目を細めた。 ピンク色のまるいほっぺたは、摘めばころんと落ちてしまいそうだ。 「ユーリは、家庭教師の先生から、他の大陸についてのお話は聞いたことがあるかい?」 「カイ先生から? えーと、えーと、わが国とこうえきのある大陸は、セントリンド大陸と、ガシュウ=ラ大陸と、あとドヴァス大陸で、お船をつかって荷物を行き来しています」 「そうだね。そのお船というのはどこから出発する?」 「キリンの港から!」 「正解。じゃあ、他の大陸と行き来するお船の荷物というのはなんだと思う?」 「荷物? えーと、えーと」 なぞなぞのようなシラーの質問に、ユーリは一所懸命に習った記憶を引き出そうと首をひねっている。 「分からないかい?」 「あなた。ユーリにはちょっと難しいのではないかしら。ユーリ、お母様が代わりに答えてあげましょうか」 「ダメ! ぼくがちゃんと答えます!」 「あら、まあ・・・ふふふ」 父親にいいところを見せたいのだろう。エカーテの助け舟をとっさにユーリは断った。 こういうところはユーリは自分と似ていない、とシラーは思う。 シラーも幼い頃は、父親に認めてもらおうと必死に勉強していた。しかし幼い子供の目から見ても、国王カインベルクの飛び抜けたカリスマは畏怖に値するものだった。宰相や大臣たちに勧められ、執務室の父の前で勉強の成果を披露しようとするたび、シラーは怖くて喉から言葉が出なくなってしまうのだった。 父王はそのたびに無言でシラーを引き寄せ、今シラーがユーリをそうしているように、おのれの膝の上に乗せ、鋭い瞳でシラーの瞳をじっと覗き込んでから、にやりと笑い、ぽんぽんと大きな手で頭を撫でてくれたのだ。 何も言わなくても、ちゃんと分かってくれている。 父カインベルクの手が頭に触れるたび、幼いシラーは涙が出るほど嬉しかったのを覚えている。 シラーの幼少はひどく内気な子供であったが、息子のユーリはどうやら利発に育っているようだ。 しばらく首をひねって考え込んでいたが、やがて思いついたのだろう、シラーを見上げる瞳がぱっと光を灯したように輝いた。 「えーと、まず、わが国のとくさんぶつである小麦や豆をのせます。これは南方のドヴァス大陸のこうしんりょうとこうかんされます。それから革ざいくはガシュウ=ラ大陸に運びます。わが国でとれる鉄や銅は、セントリンド大陸の銀ざいくとこうかんされます」 多分、家庭教師から教わったままの文言なのだろう。たどたどしく、頭の中の文章をたどるように答えきったあと、ユーリは「どうですか?」と頬を上気させてシラーを見ている。 シラーはそんなユーリの様子が微笑ましく、隣の妻と視線を合わせ、くすりと笑ってからユーリの頭を撫でてやった。 「正解だよ。ユーリはよく勉強しているね」 「うん。だってぼく、はやくお父さまのお手伝いができるようになりたいんです」 「それは頼もしいね」 胸を張るユーリが可愛らしく、シラーはまた息子の髪を撫でた。 ユーフィール国では16歳で成人を迎える。あと10年、このままカインベルクが退位するようなことがなければ、ユーリアスは王太孫として王位継承権を得る。そしてさらに何十年か後には、シラーの次に、彼がこの国の国王になるのだ。
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