第2章 3 「」が異世界語・『』が日本語 その夜中、シラーは疼く心臓をなだめながら第二塔の最上階へと続く階段を目指した。 普段、居住区以外に用事がなくわざわざ何段もの階段を登って塔の最上階へと登る王族はいない。 そもそも王のプライベート空間にあたる四階にすら行く者が少ないのだ。シラーたち王の息子であっても、成人してからはあまり王の部屋を訪ねることがない。父とはいえ国王である。会うときは、たいがい宰相を通してから執務室での対面であった。 中庭を囲むように連なる廊下の、石壁に埋まったガラス窓から小さな月が見える。満月まではまだ五日はかかるらしいが、それでもじゅうぶんに明るい月夜だ。 シラーの寝室がある三階から赤い絨毯の敷かれた階段を上がり四階フロアに出ると、その廊下にも一面の赤い絨毯が敷かれている。絨毯の模様は複雑に絡まる緑の蔦と白いローカイムの花が描かれており、この花は女神たちの台座なのだとされていた。 階段を登って右手に王の居室の巨大な扉がある。このフロアは、王一人のためだけの空間である。たとえ王の母であろうと正妃であろうと、王以外の部屋は三階より下と決まっていた。 そして王の部屋の扉を過ぎてすぐに、ここから上部へと登るための階段の扉があるのだ。 両開きになっている重厚な扉の、金色の取っ手に手をかけたところで、シラーは背後から声をかけられた。 「―――殿下、そちらから先へは、お通しできないようになっております」 振り返ると、国王の部屋の扉の前で見張りに立っていた騎士の一人が、いつのまにかシラーの側に来ていて頭を下げていた。 「通せぬとは、なぜだ」 「陛下のご命令でございます」 「父上の?」 「御意」 短い返答とともにさらに深く頭を下げられ、シラーは引き下がるしかないことを悟った。 もとよりカインベルクの命令に逆らえる者などどこにもいない。 王が「通さぬ」と決めれば、それがどのような理由であれ通ってはならないのだ。 「分かった」 頷き、シラーはきびすを返し、ふたたび三階に戻って行った。 その階段をゆっくりと降りながら、しかし腑に落ちない気分に首をかしげる。 (扉には鍵がなかった) 以前に見たときは、確かに扉の取っ手に美しい金色の錠前がかかっていた。 しかし、今夜はそれがなかった。 簡単に開くはずの扉は、しかし国王の命により通ることができなかった。 これはいったい、どういうことなのだろう。 (あの扉の先に、塔の上に、いったい何があるのだろうか) 「噂では、罪人を閉じ込めている、のだそうですよ」 「!」 ぼんやりと歩いていたために、シラーは目のまえに立つ人物にまったく気が付かなかった。 ぶつかりそうなほど接近し、声をかけられてようやく初めて気が付いた。 「ヒース、おまえか・・・」 「こんばんは、兄上。夜のお散歩ですか?」 「散歩? いや、違うが」 「おやそうですか。真面目な兄上がこんな夜中に出歩くなど、珍しいこともあるものだとついつい後を付けてしまいました。申し訳ありません」 少しも申し訳ないなどと思っていないような飄々とした顔で、ヒースは兄に謝罪した。にんまりと口角だけ吊り上げて笑う、その独特の表情にシラーも肩をすくめる。 ヒースイット・サイラ・イリアス・リサーク。シラーのひとつ違いの弟であり、正真正銘、この国の第二王子である。 深緑の瞳に頬までの茶髪。本来ならば王位継承権第二位を持つ王子であるが、彼は16歳の成人の儀と同時に継承権を放棄し、学問の徒に下っていた。 第三王子であるリヒタイトが王位継承権第二位であるのはこのためで、正妃の子であるヒースが側室の子であるリヒトに継承権の上位を譲ることになるのだが、父であり国王であるカインベルクがこれをすんなりと容認したために、ヒースは望みどおり、王子の立場はそのまま王位だけを放棄することができた。 生まれたときに与えられた王城の自室に今も暮らしているが、王都の大学に籍を置いていて、しかも何の学問を研究しているのか、聞くたびに違っているという変わり者でもある。 そして神出鬼没は彼の専売特許だ。いつのまにか背後に現れて、この弟にはいつもびっくりさせられるが、シラーはこの自由奔放な弟が決して嫌いではなかった。 ヒースは四階の塔上部への扉が、鹿狩りの日より少ししてから封鎖されたことをシラーに告げた。 「王家の森で黄金の牡鹿の狩りを行った頃、兄上はまだキリンに行ってらしたから、何もご存知なかったのですね」 「ああ。キリンから戻って父上にお会いしたときも、何も仰っていなかったが」 「どうも、このことは公には秘密になっているようです。あの塔の上の部屋には現在、小姓のリオと宰相シーヴァルの息子のマーシュのみが出入りしているようですが・・・あの青年にいったい何があるのか」 「あの者を知っているのか!? いや、この第二塔の最上階にまだ部屋があるなど、私は知らなかった。どういうことだ?」 「それはそうでしょう。あそこは、代々の王の隠し部屋です。その存在を知る者は、たとえ王族にもほとんどいないでしょうからね」 その存在を、当たり前のように知っているヒースこそ、いったい何者なのか。 しかしシラーは、ヒースの告げた隠し部屋の存在よりも、そこに確かに青年がいることを、ヒースが知っているという事実のほうが衝撃だった。 「教えてくれ、ヒース。あの者は、いったい何者なんだ? 彼はどうしてあそこにいるのだろう。隠し部屋にいるというならば、それは父上が命じたことなのか?」 「さあ・・・詳しいことは、私もまったく分からないのです。いったどこの誰なのか。なぜそこにいるのか。ただ、噂では、王家の森で狩りがあった日に、王の怒りに触れた者が閉じ込められているそうです」 王によって直接罰せられているのだと。 「王の怒り・・・?」 「噂は噂です。本当かどうかは分かりません」 だが、真相を知るものは誰もなく、また知っているらしい者は真実を語ってくれないのだそうだ。 ただ、シラーにとって、分かったことがひとつだけあった。 青ガラスの望遠鏡の先に映る、いつも窓辺に寄っていたあの青年の正体が、人形でも亡霊でもなく、人間であることは確かになったのだ。 (また、風の強い日には、雲を見上げるのだろうか) 痩せた顎を、ほんの少しだけ上げて。 シラーはこんなにもあの青年が気がかりな自分が不思議だった。 あの青年のことを調べて、どうしようというのか。 今夜だって、塔に登り、彼に会っていったいどうするつもりだったのか。 ただ、確かめたかったのか。 あの虚ろな瞳は、近くにあってもそのままなのか。 シラーを映したとき、なにか変化があるのだろうか。 変化を起こしたいのか。 あそこから、解き放ってあげたかったのか? (なぜ―――?)
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