第2章 18



   「」が異世界語・『』が日本語



 カリフ城の第一塔、三階にある王の執務室にやってきたマーシュは、重厚な扉の横に立つ警護の騎士に声をかけた。
「陛下はなかにおられますか?」
 昼を過ぎた今の時間、カインベルク王が必ずしもこの執務室にいるとは限らない。
 朝議を済ませたあとは、火急の決裁や議会、謁見の予定が入っていなければ王の時間は比較的自由である。
 第二塔の自室でくつろいでいることもあれば、愛馬を駆って王家の森に狩りに出かけたり、また視察と称し市井に下りたりすることもあった。むしろ、王自身よりも王の側近たちがその補佐のためにこの部屋にこもって執務をこなしていることのほうが多い。
「おられます。宰相殿もいらっしゃいますよ」
 マーシュが宰相シーヴァルの息子であることは城内では周知のことである。この騎士もそのために付け足して告げたのだろう。
「ありがとう」
 軽く頭を下げて扉に手をかけた、そのときである。
 マーシュが開くよりも先に、それはなかから飛び出してきた人物によって開放された。
 いきなり開いた扉を反射的に避けたマーシュだったが、出てきた人物と激しく肩がぶつかってその場でよろめいた。
「うっ・・・」
 衝撃に思わず声がもれる。
 白皙の顔をしかめ、肩を押さえて相手を見ると、それはこの国の王太子であるシラーゴート王子だった。
「殿下?」
 シラー王子は一瞬足を止めてマーシュの顔を見たが、しかしすぐに足早に去っていってしまった。
(どうしたんだ、いったい・・・?)
 普段温厚な王子には珍しい、憤りを露にした硬い表情だった。他人にぶつかり、謝罪の言葉もないのも決して王子らしくない。
 去っていくシラーの後姿を見やりながら、警護の騎士も先ほどの様子にひどく驚いているようだった。



 マホガニーの扉を開け、側近たちの控える小部屋を抜けて、さらに奥にある扉の前に進む。ここにも警護の騎士が立っており、マーシュは軽く会釈してから王の居ますその部屋へと入っていった。
 扉を開けてすぐに目に飛び込んでくる鮮やかな色彩。
 広い執務室の壁一面に垂らされた深紅のタペストリーは、王の威厳の象徴だとされているが、じつは王国の血なまぐさい過去を隠すためだともまた言われている。
 ハリア大陸のほとんどを支配する強大なるリサーク王家の長い歴史は必ずしも常に安寧であったわけではなく、ユーフィール国が大きくなるために滅ぼされていった王国がかつて存在していたことは、隠すことのできない事実である。
「失礼いたします」
 壁際の執務台に肘をつき、組んだ手に顎を乗せかたわらに立つ宰相を見上げて会話していたカインベルクが、凛と告げられたその短い挨拶にようやく視線を入り口へと向けた。同時に、父である宰相シーヴァルも息子の姿を見止めて小さく頷いたようだった。
 マーシュは再度頭を下げてから、二人の前まで歩み寄った。
「・・・さきほど、表の扉のところで王太子殿下とすれ違いましたが、なにやら普段とご様子が違っていたようです」
 珍しいシラーの苛立った姿を、マーシュは思わず執務台の椅子に腰かける人物に告げた。
 王太子の憤りの原因は、多分この室内でなにかあったに違いなく、そしてその元凶はおそらく目のまえの無邪気な男であることは想像に難くない。
 案の定、カインベルクはいかにも愉しげに口元を笑ませた。
「ふふん。あやつどこから嗅ぎつけたか、余が閉じ込めておるあの小部屋の男のことを聞きたがるゆえ、今日も思いっきりシラを切ってやったところよ」
 今日も、ということは、シラー殿下は何度か通ってきたのだろう。そしてその度、すげなくかわされている。
 カインベルクの王族特有の深い森のごとき緑の瞳がキラリと光っているのを、マーシュは眩しく見つめた。彼の瞳は、なかでもとくに深いような気がする。
 周囲はみなこの瞳に惑わされ、惹き付けられてしまうのではないだろうか。
 だから、王がどんなに子供じみた態度を取ろうが、この王ならばと許容してしまう。今も、だ。
「左様でございましたか」
「うむ。毎回余が知らぬ存ぜぬで通すのに、あやつにしては珍しく必死の形相で食い下がるから、それが面白くてな。さきほどは、おおかたキリンで食べた外国産の茸にでもあたって幻覚でも見ておるのだろうと言ってやったのだ。ふふ、なんだ、そんなに腹を立てていたか」
 王太子の立場にある成人した息子をからかって、肩を震わせて愉快に笑う王の姿に、シーヴァルは形のいい眉をひそめて「それはお怒りにもなりましょう」と溜め息をついていた。
「侍医を寄越すから頭を診てもらえなどと、陛下が無慈悲にも追い討ちをかけるからでしょうに。・・・シラーゴート殿下はいたって真面目な方ですからね」
 陛下に似ず―――という言葉をシーヴァルがあえて飲み込んだことを、息子であるマーシュは察知した。口を慎めと、いまさら諌めたところでこの国王の性格が直らないのはみな承知しているところだ。



 マーシュが王の在室を確認してこの執務室へ入ってきたのは、ひと月ほど前、父である宰相シーヴァルより辞令をくだされた極秘裏の任務の件についてであった。
 それは奇しくも、シラーゴート王太子殿下が何度も国王に詰め寄ってまで知りたがっている、かの第二塔の捕らわれ人についての報告である。
「して、かの者は少しは我が国の言語を理解するようになったのか?」
「それが・・・」
 シーヴァルの問いに、マーシュはわずかに眉宇を寄せた。
 塔に暮らす、青年の顔が脳裏に過ぎる。
 なにを考えているのか、いつ訪れてもじっと静かに窓辺にたたずみ外ばかり眺めている、不思議な男だ。
 青白くこけた頬。伏しがちの目。
 こつんとガラスにくっつけた額に、伸びた黒髪が無造作にかかっても気にする様子もなく、骨の浮き出た痩せぎすの手のひらがごくたまに窓枠の桟にかかる。青年に関して、それ以外の彼の自発的な動作を知らない。
 言葉の通じない彼に、このひと月マーシュは根気よくハリア大陸の言語を教えてきたのだが、果たして青年がそれを理解しているのいないのか。
 毎日顔を向かい合わせても、マーシュの指導は一方通行で、手ごたえというものを感じることがなく歯がゆい思いをしている。
 甲斐甲斐しく青年の身の回りの世話を焼いているリオにさえ、青年は心開く様子がないのだ。
 ただ、ひとつだけ分かったことはある。
 何度も何度も繰り返し、しつこく聞き及んだすえにようやく発した一言。
 名前だ。
「アリタソージと、かの者は名乗りました」
 耳慣れぬ発音の名前に、ほう、と国王と宰相の二人はわずかに驚いた顔をした。
「アリ、タソー、ジ?」
「確かか?」
「御意」
 それが姓であるか、名であるか。またその両方であるのかまでは、言葉が通じぬのだから分からない。
 どこにアクセントを持って来るべきか、カインベルクはその名を何度が口中で呟いた。
「アリ、タソージ・・・アーリタソージ。ふん、言いにくいな。まあよい。アーリと呼ぶことにするか」
 アーリ、アーリ。とまた何度か口のなかで繰り返し、カインベルクは己のその決定を気に入ったようだった。
「昔、手折った女と同じ名だ。そういえばあれは、鄙にはまれな美人であったな」
 若い頃の気紛れを思い出したのだろう。にやりと、腕を組んで人を食った笑みを浮かべた。



 名前が分かった以外、青年の身元追及については何一つ進展がなかった。
「―――どうやら言葉を教わる気も、覚える気もないようです。あの微塵も覇気のない態度。あれで身じろぐことがなければ人形そのものです。世話がかかるぶん死人よりも性質が悪い」
 思い通りにならない事態に、マーシュは苛立ちを隠せないようだった。苦虫を噛み潰したような顔で、眉間に寄ったしわが深い。
(ほう)
 普段、何につけ取り澄ましたところのあるこの若者がこういう表情をすることは珍しく、彼にそんな顔をさせたアーリをカインベルクは誉めてやりたくなった。

 ―――気が向けば、また神試しをしてやってもよい。

 呆れ顔の幼馴染みの宰相にそう言い放っておいて、じつはカインベルクは塔の上に閉じ込めた男のことなどすっかり忘れてしまっていたのだ。
「・・・いま、気が向いたぞ、シーヴァル」
 王家の森で出会ったときと、寝台の上で目覚めた顔を撫で上げたとき。
 確かに二度、かの者とはまっすぐに視線を合わせたのだ。
 骨の浮いた貧弱な体を貫いてからは、彼の瞳は蝋のごとき薄い目蓋に閉ざされてしまっていたが。
(だが、人形ではあるまい)
 おもむろにカインベルクは椅子を立った。
「余はこれから馬丁に預けてあるキンファスの仕上がりを見に馬場へ行くが、二刻のち、上に参る。・・・ああそうだ、この前のように狭いのは面倒だ。マーシュ、リオに命じて支度をさせておけ」



 何が、とも、何の、とも問わない。だが、理解している。
「御意」
 と、マーシュは頭を垂れ、静かに応じた。








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