第2章 21



   「」が異世界語・『』が日本語




 こうなったら、とっとと逃げ出すに限る。王都までの道のりは、途中の馬車をヒッチハイクでもなんでもすればいい。リヒトの側を離れられるのなら多少時間がかかろうとも歩いて帰ったっていいし。
 決めたとなると達樹の行動は素早かった。
 さっさときびすを返すと、着の身着のままで館の正門の方角へと向かい始めた。
 荷物もなければお金だって持っていない。
 しかし、そんなこともまったく気にはならなかった。
 もともとこの世界には無一文で放り出されたのだ。幸い女神様の寄越した祝福のピアスの宝石はそのまま両耳に残っているから、当初の予定通りこれを売り払えば当分夜露もしのげるだろう。
 達樹の今いる場所から中庭のこの小路をまっすぐ突っ切れば、正面玄関へと続く回廊へ出ることができるらしく、遠く木々の合間にその回廊の壁が見えている。
 頭上の青空はどこまでも澄んでいて、まるで達樹の幸先を祝ってくれているかのようだ。
 中庭を取り囲む赤レンガの高い城壁が朝日を受けて明るく輝いていて、その晴れ晴れとした様子は今の達樹の気分そのもので、達樹は足取りも軽く小路の土を蹴った。



「―――困ったわ、今更王都へ行かなければならないだなんて・・・。今から向かっていてはもう婚儀に間に合うようには戻って来られないというのに」
 小さく女性の声がしたのは、ようやく庭を抜け、模様のある煉瓦でできた柱が立ち並ぶ回廊に入ろうとしたときだった。
 この回廊は庭に面してぐるりと囲むように渡っていて、その庭に面する部分は吹き抜けで壁がなく、腰までの高さの手すりに囲まれた廊下はテラスにもなっているようである。
 回廊自体も庭よりもいくぶん小高くなっていて、その床へと上がる、三段ばかりの小さな踏み段に足をかけた、ちょうどそのときに、声が聞こえてきたのだった。
(なんですと!? いま、王都っつった!?)
 王都? 王都っつったら、カリフ城のあるあの王都サンカッスだよな!?
 たったいま、そこに向かおうとしていた達樹がその単語を聞き逃すはずがなかった。
 ピタリと足を止め、首を巡らせて声の主を探すと、どうやら女性は柱の影にいて誰かと話しているようだった。
 大人の男が腕を回して一抱えするくらいの太さの柱だから、細身の女性くらいはすっぽりとその影に隠れてしまう。だが、くるぶしまであるスカートの裾が柱からはみ出していて、達樹はすぐに所在を知ることができた。
「だけどライナ様、ロザモンド様のお言いつけだから、行かないわけにはならないのでしょう? 俺でよかったら、王都に行きます。俺は馬も乗れますし、早駆けすれば十日後の式にはじゅうぶん戻ってこられます」
「だめです。おまえの身分ではカリフ城に登れません。といっても、今の時期、みな忙しくてとてもほかに頼めるひとなんて・・・」
 カリフ城。
 そう聞いた途端、達樹は詳しい事情もなにも知らないまま、柱の向こうに飛び出して立候補していた。
「わ、私がお手伝いいたします!」
 女性ともう一人の人物が、いきなりの美少年の登場に目を丸くして驚いたのは言うまでもない。




 ライナと呼ばれていたその女性は、たしか昨日、応接間にてトライスの妻となるロザモンドの側に寄り添って、彼女の代わりに挨拶の口上を述べていた侍女に間違いなかった。手には小さな焦げ茶の革張りの箱を持っている。
 一緒にいる素朴な様子の背の高い青年は知らないが、格好からしてこの館で働く下男なのだろう。
「あ、あなたは・・・たしかリヒタイト殿下と一緒にいらした・・・」
 ライナはびっくりしたように声を洩らした。
 どうやら達樹の顔を覚えてくれていたらしい。対面自体は素っ気のない、時間にして5分もないであろう短いものであったが、つい昨日のことなのでお互いに顔を忘れていなかったようだ。
「はい。殿下の侍従を勤めております、タツキと申します」
 侍従、と聞いて隣の青年が「え!?」と声を上げて驚いた。目を丸くして達樹の姿を凝視している。
「侍従どの、ですか? 本当ですか?」
(え? なに? 俺って侍従に見えない? やっぱ庶民オーラが滲み出てる!?)
「いえ、あ、あの・・・侍従と申しましても、形ばかりのものです。本来は小間使いで雇っていただいたのですが、つい最近、リヒタイト殿下の気紛れでそうなってしまったというか・・・。あの、私などが、殿下の侍従など、分不相応だとは思っているのですが・・・」
 台詞の最後のほうは心にもない言葉であるのは言うまでもない。できることなら小間使いのままでいたかった。いや、それすらも嫌でたったいま、リヒトの元から逃げ去ろうとしているのだ。
 だが青年は達樹の言い訳に、慌てたように首を振った。
「い、いえ、あの、違っ・・・そういう意味では―――」
 と、それきり顔を赤くして口ごもってしまった青年に、ライナが助け舟を出した。
「タツキ様、この者は、あなたが侍従ではなく、この館の・・・トライス様の招待客だと思ったのですわ」
 ライナの言葉に今度は達樹のほうが驚いてしまう。
(はあ!? 招待客って・・・つまり、俺が貴族に見えたって、そういうこと!?)
 しかもトライスの友人ともなれば、貴族のなかでも高位の、大貴族であろう。それこそ王子であるリヒトや二位爵の子息であるヒューズと並ぶ高貴な身分の。
 ぶっと、達樹は噴出しそうになった。
(な、なにをおっしゃいますか! 俺ぁ、生まれも育ちも中産階級の、正真正銘の一般庶民だって! 3LDKに住んでる普通の男子高校生だぞ? それをどこをどー見れば、この俺がお貴族サマってわけ!?)
 それはないって!
 達樹はにっこり笑って首を振った。
「違います。そのように立派な身分の者ではありません」
「まあ・・・そう、なんですの? じつは、あの、わたくしもてっきり、トライス様のご友人のお一人かと思っておりましたから、タツキ様がご自身を侍従とおっしゃって、すごくびっくりしております。昨夜も今も、殿下と並んで遜色ない高貴な装いでいらっしゃるし・・・。でもそれにしては、昨夜はロザモンド様への紹介がなく不思議に感じておりましたが・・・」
 勝手に勘違いしておりました、と申し訳なさそうに眉尻を下げるライナに、達樹のほうこそ申し訳なくなった。
(こ、高貴って・・・うぎゃあ! お、俺の格好って、そうなの? 侍従っぽくないの? 小間使いのときからこんな格好なんだけど、やっぱ普通じゃないんだ!)
「そ、それは・・・紛らわしいことを・・・申し訳ありません・・・」
 でもだって、俺だって好きでこんなずるずるしたやたら高そうな上着を着てるんじゃないんです!
 なんだか知らないけど、変態王子がミヤさんに用意させるのって、絶対こんなのばっかりなんです! 命令だとか言って、地味目な服って貸してもらえないんです!
 生成り色の長い下着の上に、足首まである上着を重ね着するというスタイルは、ファンタジー感全開なうえに、その上着だの腰帯だのがやけにキラキラしててやっぱり恥ずかしいのだが、それでも女神様に無理やり変身させられた神官見習いの上下真っ白の衣装なんかよりはまだ達樹のなかでマシな気がして、結局は差し出されるまま素直に身に着けているのだ。
 そういえば、と達樹はあらためてこの世界の身分制度を思い出した。
 身分差というものが厳密に存在するこの世界では、服装ひとつとってもそれらは明確に区別されると、この異世界の国に降り立った初日にしみじみと感じたはずだった。
 サーラ様たちにも習って知っていたではないか。
 侍女や侍従たちと下働きの者たちは、おなじ労働者階級でも差があるようで、服装もそれなりに違っている。館に仕える下男たちは、市井の庶民たちよりも多少見栄えのするベストを身に着けていたりはするが、それでも貴族と同じような長衣を着る侍従とは一目瞭然で違いが分かるらしかった。
 侍女も同じで、エプロンスカートを着けている下女たちとは違い、その装いはドレスに近い。ただ、貴族の女性のドレスが振袖のように大きな長い袖に、さらに袖口に何重ものレースがあしらわれているのに対して、侍女のドレスは簡素な筒袖で動きやすくなっている。また、やはり素材や施されている刺繍や地模様でも格段に差があるようだった。
 だから本来は達樹が、大貴族のような高級な上着を身に着けていること自体が、普通ではないのだ。
 リヒトの屋敷で着せ替え人形のようになすがままになっていたため、そんなことをすっかり忘れてしまっていたが・・・。
 ましてや、達樹の可憐で儚げな美貌である。周りから見れば、とてもじゃないが、人に仕える身分の人間には見えなかった。
 誰かにかしづかれて、恭しく守られて暮らすのが似合いの美少年なのである。その立ち居振る舞いにも、どことなく気品が滲み出ており、普通の暮らしをしているところなど、想像がつかないのだ。
 実際は・・・女神の下僕と成り果てた、ただの苦労性の一般男子高校生なのだが、いまの達樹の愛らしい外見は、まったくそんな事実を見事に隠し、周囲を騙しきっている。
 驚いてまじまじと達樹の顔を見下ろしていた青年は、ふいに達樹が彼を見上げて目が合った途端、耳まで顔を赤くしてぱっと目を逸らしてしまった。








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