第2章 23 「」が異世界語・『』が日本語 暁城(あかつきじょう)に用意された貴賓室の窓辺から、周囲に広がる緑の雑木林をリヒトはふと目を細めて眺めた。 林の木々の合間にうっすらと湯気の立ち上る箇所がある。 (夕べの露天は、たしかあの辺りだったか・・・) 腕のなかに囲い込んだ白い肢体を思い出し、わずかに口の端を上げる。 とろりとした湯の成分を吸った達樹の柔らかな肌に、あのとき、リヒトは思わず手を妖しく這わせてしまっていた。 愛撫に応えて震える全身がまた蟲惑的で、捕らえた指先に力を込めたのだ。 華奢な体の身じろぐわずかな抵抗が、よりいっそうリヒトの情火を煽ったのだとは、己を知らぬ達樹はまったく気付いていないに違いない。 (無垢にもほどがあるが) 押し黙っていれば、神聖なまでの愛らしい美貌にきっと何者も近寄れないであろうというのに・・・。 達樹はその黒く円いつぶらな瞳のなかに、戸惑ったり嫌がったり恥らったりと、じつに人間味あふれる表情を、まるで幾重もの薄物がくるくると風にひるがえっているかのように、間を置かず様々と変化して見せてくれるのだ。 だからこそ、誰もが気安くあの美貌に話しかけることができるのだろう。 驚かせて思わずきょとんとした呆けた顔も、拗ねて尖らせた唇も、怒って寄せた眉間のしわさえも。何もかもが、リヒトの心を惹きつけて止まない。 可愛くて・・・可愛くてたまらないのだ。 (触れずにいられないのは、仕方がないな) 今だって、早朝に部屋を抜け出して帰ってこない達樹を心配して、わざわざ従騎士のコーノに探しに行かせたくらいだ。命を受けたコーノの顔は過保護だと言いたげだった。 たしかにそうかも知れないと、従騎士の内心を否定はできない。 過保護。リヒトにそのような態度を取らせる人間など、かつてただの一人もいなかったことなど、あの美少年は知らないだろう。 リヒトは上げた口の端を、さらに笑ませた。 そんなリヒトの様子に、背後から呆れたようなルクスの声がかかった。 「ちょっと、聞いてるんですか殿下」 もちろんだ。と、つとめて冷静に応えて振り返れば、金色の視線がリヒトを疑うように睨んでいた。 こんなときに何をのん気に物思いに耽っているんだと言わんばかりのルクスの顔に、彼の隣で、ヒューズが小さく肩をすくめている。 どうやらリヒトが達樹のことを考えていたことなど、すっかり見通されているようだ。だが、そんな二人の態度など無視して、リヒトは窓辺を離れ、優雅な足取りで中央のソファに寄り足を組んで腰かけた。 「で?」と、さっきまで脳裏に想像していた達樹の肌などおくびにも出さず、リヒトは話を促した。 「だから、俺はあの婚約者殿がどうも怪しいと思うんです」 ルクスの推測は、さきほど彼から受けた調査報告からすると当然のように思える。昨晩から館で働く人々に、密かに内偵を行っていた結果を、たったいま、この騎士たちから聞いていたのだ。 昨日の晩、ロザモンドが地下室のある廊下を歩いているのを見かけた下女がいたのだ。 深々とベールをかぶってはいたが、その裾からこぼれ覗く、輝くようなプラチナの髪はたしかにロザモンドのものであるに違いないとの証言だった。 しかも他の下女からは、ロザモンドの部屋には今まで、館のお抱えではない薬師らしき男が何度か訪ねてきていたようだという話も聞いた。 「薬師?」 「はい。近隣の者とも違うようです。この男のことも現在正体を調査中ですが」 「そんな者を、ロザモンドはどうして知っていたのか・・・」 「だから絶対に怪しいんですよ」 目元をきつく座らせて、ルクスは言い放った。 普段は自室にこもりきりで、まったく館のなかを出歩くことがないというロザモンドである。その彼女が、昨晩、真夜中といってもいい夜半に、たった一人、普通なら用もないであろう地下室へ赴いた理由とは―――。 下働きの若い娘の死体。 かじりかけのリンゴ。 薬師の男。 ―――そしてロザモンドの謎の行動。 だが、もし彼女が犯人だったとして、館の下働きの娘を狙った意図が分からないのだ。 ・・・なぜ、どんな理由があって、娘を殺すに至ったというのだろうか? 「ほかの者の話によると、けっこう可愛らしい顔の娘だったようですからね」 ミシャという名のその娘は、小さな太陽のような、よく笑う朗らかな良い子だったそうだ。真面目でよく働き、誰もに気を遣える優しい性格であったとも。 ミシャが殺されたことは現在館のなかでは伏せられているが、彼女の名が出た途端、みな誉めることしかしないのだ。 聞き込みをしていたルクスは、その評判からひとつの動機を推察したようだった。 「館のなかで、トライス様の手がついていたんじゃないですか?」 伺うように告げられたその言葉を、しかしリヒトは一蹴した。 「トライスはあれで割り切った相手としか遊ばない男だ。おまえが考えているような線はないだろう」 「それは分からないじゃないですか。カリフ城よりも高い気位の婚約者殿との結婚をまえに、つい従順で愛らしい使用人に食指を動かされるってことはないんですか? それをロザモンド殿が不快に思い、嫉妬して―――」 そして殺害にまで至った、と。 「あるかも知れないな。だが俺には、トライスに嫉妬するほど、あの姫君がやつに入れ込んでいるようには見えなかったが」 「それは、そうなんですけど・・・」 「ねえ、じゃあこうしましょうか、殿下。トライスに断って、ちょっとあの婚約者殿を尋問しちゃいましょうか?」 ちょっとそこまでお使いに行ってきましょうか? と錯覚するほど、飄々とヒューズが口を挟んだ。親友の妻になるという女性のことだというのに、ヒューズの口調は普段どおりに軽い。その相変わらずの様子に、リヒトは苦笑を隠して否という合図の手を挙げた。 「ロザモンド殿の実家、エン領イリエ三位爵家はロンバース地方では古くからの名門だ。仮にもそこの令嬢のことであるから、ことは慎重に運ばねばなるまい」 「ですが殿下」 不服に口を歪めたルクスを、リヒトはやはり手の合図で黙らせた。 「薬師の正体。それからロザモンド嬢とのつながり。さらには毒の種類と入手口など、詳細をはっきりさせるまでは派手に動くな。二人とも、ほかの者たちとともにそのまま内密に調べを進めろ」 「・・・承知しました」 言葉とは裏腹に不承不承なのが見え見えのルクスに、リヒトは今度こそ苦笑した。 館でいろんな噂が流れておりますが、本当はとてもお優しい姫君なんですよ。 馬上で青年にもらったビスケットを頬張りながら、達樹は彼からそんなふうに告げられた。 「そうなのですか?」 と応えながら、達樹の頭はビスケットの美味しさに、感動の花が舞い散っている。 (ウメェ! なにこれ、さっくさく! ほんのり蜂蜜風味っての?) 王都への道のりに同行することになった長身の青年はオルマと名乗り、館では厨房の下男をしているのだそうだ。猫背気味の朴訥そうな男だ。 達樹がもらったビスケットは、このオルマの手作りであるらしかった。達樹と目が合うたび、すぐに赤くなって俯いてしまうくらい気が小さい男のくせに、なんて素晴らしい菓子作りの才能なんだ! と、達樹は少しだけ目前の青年を見直した。 リヒトの屋敷で出されていたような手の込んだデザートには、見た目はとても適わないのだが、なんの飾り気もない素朴で優しい味わいは、だからこそそれらに勝って極上なのだった。 (それにさー、俺ってなんか、気取ったお菓子って分かんないんだよな。チョコレートだってチ○ルとかチョ○ボールとかでじゅうぶんだしさ) なんたって庶民だし。有名パティシエの高級スウィーツなんて、口がついていかないっつーの! 達樹があまりに美味しそうに食べるからであろう、オルマは自分のぶんにと分けてあった僅かな残りもすべて達樹に差し出した。 「こ、こんなものでよければ、いつでも作れますから、どうぞ召し上がってください」 「いいのですか? 嬉しい・・・あの、ありがとうございます」 食い意地のはっている達樹は、もちろんオルマの申し出を断るわけがない。 オルマにしてみれば、立派(だと思っている。なにせ第三王子の侍従なのだから)な身分の方が、たかが下男の作った粗末な菓子を喜んで受け取るほうが珍しく、またその喜ぶ姿が今までに見たことがない愛らしさで、かつあまりにも清純可憐な様子なので、照れくさくて仕方がないのだが、彼のそんな態度は達樹の目からはおどおどしているようにしか見えず、 (いやー。人は見かけによらねっつーか。こんななんも出来なさそうな図体ばっか縦にひょろながい兄ちゃんに、こんな才能があるなんてなー。人間やっぱ見た目じゃねっつーか、世の中捨てたもんじゃねっつか) などと、やたら失礼極まりない感想を浮かべていた。 ひとりで馬に乗れない達樹は、オルマの操る馬に一緒に騎乗させてもらっている。 道中目立たないようにと、暗い色の地味なマントを馬丁に借りてそれを頭からかぶり、オルマの背後で鞍にまたがり、彼の背中にしがみつく格好である。いわば自転車の二人乗りのようなかんじなのだが、自転車と違って足を置く場所がないぶん振動がじかにお尻に当たって痛いことこの上ない。 リヒトの馬に乗せられていたときは、そういえば鞍の上にわざわざ分厚い敷布を敷いてくれていたと思い出した。 (さすがは王子様。やることに卒がないっつーか、なんつーか・・・) そういえば達樹を馬に乗せるため、手を取って馬上に引き上げる所作など、(こ、こりゃ本物の貴公子だよっ!)とお見それしたものだ。 常日頃のセクハラさえなければ尊敬できる気がするのに・・・。 まったくもって残念なやつだ。 オルマは達樹が怖くないと思う程度の速さで馬を駆けさせていた。 暁城の周りに広がる雑木林を抜け、別荘地の集落も過ぎて街道に出た頃、そういや昼ごはんはどうするんだろうなどと腹具合を気にし始めたときに、渡されたのが先ほどのオルマ手作りのビスケットなのだった。 今はまた、集落と集落の合間の田園地帯、見渡すかぎり麦畑ばかりの街道を行っている。 達樹がビスケットを頬張りだしてからは、振動で口のなかを切ってしまわないように馬の速度をかなり緩めてくれていて、おかげでこうして会話も出来るのだろう。でないと、走っている馬上で、とてもじゃないが迂闊に口など開けない。かっぽかっぽと、歩いているのと大して変わらぬほどの速度で、今、ふたりは馬上に揺れている。 「本当に、良い方なのですよ。おきれいで、気高くて・・・」 ロザモンドのことを思い出しているのだろう。呟くようにそう述べるオルマに、達樹は物は言いようだなあという感想が浮かんだ。 (気高いっていうかさ、ありゃ単にプライドが高いだけじゃねえのって思うけど) 達樹の印象では、ロザモンドは「ザ・貴族のご令嬢!」な女性だった。 イリエ三位爵の五番目の子供で、それはそれは可愛がられて育てられた深窓の姫君なのだそうだ。 生まれ育ったエン領で、悠々自適に暮らしていただろう生活から一変、無理やり決められたらしい突然の結婚でやって来さされたカバスナ領のトライスは、王都にまでその名を響かす節操なしの浮気者ときては―――。 (そりゃ、プライドを高くしてなきゃやってらんないかもしれないけどさ) それにしても、高すぎだろう。というのが周囲の大方の意見であった。 「ロザモンド様は、気高いだけでなくお優しくもあるんです。たぶん俺しか気付いていないんでしょうが、ロザモンド様は窓辺に寄る小鳥たちに毎朝パンのかけらをあげていらっしゃるんです。その小鳥たちを、ベールの内からじっと見つめていらっしゃる。・・・もしかしたら、ご実家を離れ侍女のライナ様とたったふたりでこのカバスナ領に来られたのが心細く、お寂しいのかもしれない・・・」 心酔したようにロザモンドを語るオルマに、いや、そんなんまったく想像できないし。と、達樹が思わず心のなかで突っ込んでしまうのも仕方がない。 達樹が会ったロザモンドは、黒い喪服のようなドレスを着て、婚約者のトライスに対しても一言も口を利かないという冷たい姫君である。 そんな姫君のことを、そうまできれいだ優しいだと声高に言うってことは・・・。 「オルマさんは、ロザモンド様をお好きなのですね?」 何気なく達樹がそう聞いた途端、前方のオルマはゲホゲホとむせていた。 「なっ・・・な、な、なんてことを」 「違うのですか?」 「いえ! 違う、ことは、ありませんが・・・その」 オルマはふいに首を巡らせて背後の達樹を振り返り、困ったように微苦笑した。 「―――館の主人であるトライス様の奥方となられる方として、尊敬しております。ロザモンド様は大貴族であるイリエ三位爵のご息女です。そんな方に懸想など・・・恐れ多いことです。俺ごとき下男の首など、簡単に飛んでしまいますよ」 はなから身分が違う。 だから、見ているだけ。 否。それすら、知られてはいけないことなのだろう。 「そうですか・・・」 それ以上、達樹は何も言えなかった。
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