第2章 25



   「」が異世界語・『』が日本語



 おかしい。
 達樹が戻ってこない。



 苛々とした様子を、リヒトはもはや隠せないでいた。
 今朝方、達樹が足を忍ばせて部屋を抜け出たことは知っていた。
 殺人事件のうやむやで昨夜は呆然とした様子でいたのが心配であったが、捜査の指揮や騎士たちからの報告への対応で達樹に目をかけてやれていなかったように思う。
 起き抜けもまだ落ち着きのない態度であったから、衝撃を受けたままなのだろうということも分かっていた。だからこそ、こっそりとリヒトから隠れるように部屋を出ているところを見つけても、気晴らしに中庭にでも出てみるのだろうと、あえて見逃してやったつもりであったのだ。
 暁城との異名を持つほどの広壮たる館ではあるが、本格的に迷子になるほどのものでもあるまい。見た目のいとけなさについ騙されがちになるが、あれで達樹は十八になる成人男子(ユーフィール国では十六で成人する)であるという。いざとなれば、そこここに働く館の使用人たちに帰り道を尋ねればすむのだし、だいいちあの人目を引く容姿で一人歩きさせていれば、その足取りもおのずとすぐにリヒトのところまで知れることだろうと―――。
 だが、あまり他人に無防備な態度でいられてもまずい。とくに今はトライスの婚儀の招待客たちが館のなかに滞在していて、いつ誰が、達樹の姿に目を留めて、彼を欲するとも限らなかった。
 おのれの容姿に無頓着なあの美少年は、自分自身の価値にまったく気付いていないのだ。
 優美な姿に似合わぬ腰の低さもあだになりかねない。ましてやあの若枝のような細い腕では。
 強引に迫られでもすれば、押し返す力もあるまい。
 お止めください、とまったく迫力のない及び腰で抵抗されても、逆に男の欲望は燃えるばかりだというのに・・・。


 王家の森で初めて達樹を見出したときのことを、ふいにリヒトは思い出した。
 震える身体を必死に押し隠すように、涙目をこらえてリヒトに歯向かってきたのだが、殺気のかけらもない白刃を突きつけられたとて、それこそ無力を相手に知らしめるだけでなんの意味もない行為だと分からないのかと、むしろ微笑ましいばかりであった。
 だからこそ、その可愛らしさにその場はあえて彼を逃がすことを許し、別れ際にリヒタイト王子の印章である黒曜石の指輪を下賜までしたのだ。
 あのとき、リヒトの正体さえも知らなかった神官見習いの少年が、ぽんっと投げ渡された指輪はじつは王家の指輪であると、いったいいつ気付くだろうかと楽しみに思いながら。
 その指輪が縁となり、時を置かずして再会したときの奇跡を思うと、リヒトはもう達樹を手放す気にはなれないのだ。



 やはり、目を離すべきではない。
 リヒトが捕らえた、黒い瞳の可愛い小鹿―――。
 事件捜査のものものしい雰囲気に怯えているならば、自分が慰めてやらねばならなかったのだ。中庭でひとり気晴らしなどさせてはならない。
 安堵や安心と言った感情は、それはリヒトが手ずから用意し与えてやるべきものだ。
 誰かにすがったり頼ったりしようと達樹が気付くまえに、考え得るありとあらゆる憂慮はすべて、リヒトが排除しておいてやらねばならない。
 真っ白な極上の真綿で、優しくその身を包むように。
 甘やかして甘やかして。
 リヒトなしでは、息もできぬくらいになればいい。
「―――殿下」
「見つけたか?」
「いえ、それが、まだ」
 ならばいらぬ報告だ、とリヒトは声をかけてきた騎士に背を向けた。
 窓から見える西日がもうすぐ夕刻にさしかかるのだと告げている。
 昼を過ぎても行方が分からなかった時点で、コーノをはじめ近在の騎士たちを遣ってほかの貴族たちの別荘地にまで足を伸ばして探索させていた。
 ひとりで馬に乗れない達樹が、中庭どころかまさか館の敷地を出て行ってしまうとは考えにくいが、万が一ということもある。館を囲む雑木林に迷い、そのまま林を抜けて戻れなくなってしまっていたら―――。
 もし、リヒトでないほかの誰かが達樹を見つけ、あの可憐な小鹿を保護していたら。
 リヒトがそうしたように。
 目印をつけて。
 自分のものだと腕に囲んで。
 途端、リヒトの眉間にしわが寄った。
「―――シュトルツの鞍を用意しろ」
 厳しい声音で彼の愛馬の名を告げる。
 こうなったら、己自身で探し出し、迎えに行かねば気がすまない。
 は、と頭を垂れて下命を受けた騎士が、きびすを反しリヒトの部屋を辞そうと足早に扉へと向かったそのときである。
 リヒトよりも厳しい顔をしたコーノが、いきおい扉を開けて飛び込んできた。
「殿下!」
 前任の従騎士を務めていたルクスとは違い、市井の下町の出自でありながら喧騒のなかで育ったとは思えぬ落ち着いた物腰を常とするコーノの、そのいつもにない緊迫した様子が尋常でない事態をすぐにリヒトに知らしめた。
 自然と問いただす声も低くなる。
「なにがあった」
「は。さきほど、厨房係の下男がやけに取り乱した様子で正門から馬ごと乗りつけてきたのです。すぐに正門の守衛に取り押さえられましたが・・・」
 通常、貴族の邸宅や領城の正門は、その主人や家族、また主人に招待された者しか使用しない、いや、してはいけないものである。それ以外の者たちは通用門より出入りするのが常識で、主人の許可なく正門を通ったことが知れれば厳重に罰せられるものであった。
 それが。
 まだ日も暮れぬ時間で、とりわけ今は滞在客とその連れも多く、乱暴に馬で正門を通ろうとすれば必ず人目に付かぬはずがないであろうに。
「どういうことだ?」
 とリヒトが疑問に眉をひそめたのも無理はなかった。
「その男はライナという侍女に火急の取次ぎを守衛に申し出たそうです」
「ライナ?」
「はい。ロザモンド様の、侍女です。殿下―――」
 コーノは一瞬言葉を切り、己を落ち着かせるためか、一度大きく息を吸ってからリヒトと目を合わせた。
「その様子がただごとではなく、不審に思った守衛が尋ねたことには、侍女に頼まれ、ロザモンド様の使いで館の外に出た下男の連れが、宿場町の宿屋にてかどわかされてしまったと」
「―――」
「そしてその連れというのは、リヒタイト殿下の侍従殿であると・・・」
 側にいた騎士が、はっと息を呑んだようだった。








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