第2章 27



   「」が異世界語・『』が日本語



 どんなおぞましい変態に品定めされるのだろうかと身構えていたのだが、達樹を見下ろしたのは正体不明の男だった。
 文字通り、正体不明。
 真っ黒なフードを頭からすっぽりかぶり、同じく黒い布で顔の半分を覆い隠していて、目元がわずかに覗くばかりの不審な出で立ち。
 だが、そのわずかに覗く目元の眼光の鋭さと、鍛えられているだろうがっしりした長躯が発する重苦しいまでの威圧感が、男が只者ではないことを知らしめた。顔が隠されているせいで年齢が読めないが、多分、中年とまではいかずとも若くもあるまいと思わせる雰囲気である。
 あきらかに、達樹を捕らえた田舎の悪漢たちとは纏う空気の質が違う。
 この男は危険だ―――。
 達樹の本能が、頭のなかで真っ赤なアラームを鳴らした。



 戻ってきたギヨームはまず、仲間たちが達樹に手をつけていないかどうかを野太い声で詰問し、それから商品である達樹を客人のまえに差し出した。
 差し出す、といっても床に転がされた姿勢から上半身だけ起こされて、口布を乱暴に剥ぎ取られただけである。
 鼻から覆われていた分厚い布が取り払われ、息苦しさから解放されて思わず大きく息を吸い込んだ達樹の喉元に、ギヨームのナイフの先が押し当てられた。
 そのひんやりと冷たい刃の感触に、達樹の動きはぴたりと止まった。
「痛い思いをしたくなかったら絶対ェ騒ぐんじゃねえぞ」
 そして低く脅しをかけられたのだが、達樹の心境は騒ぐどころじゃない。
(こっ、怖くて声なんか出せるか!)
 固まったままの達樹を見て、ギヨームは「よし、そのままいい子にしてるんだぜ」と意外にもすぐにナイフを引っ込めた。高値で買ってもらうつもりの商品に、傷をつけるのは彼としても本意ではないのだろう。
「どうです旦那? こりゃあ、ちょっとやそっとお目にかかれない美人でしょう。旦那は運がいい。きっと初物ですぜ?」
 ギヨームはそこで言葉を切り、ねっとりと達樹に視線を這わせてから、もったいぶるようにクリイガに囁いた。
「こんな上物は市に出すなんかより、まず旦那にと思いましてねェ。こうして直接声をかけたんでさァ」
「―――すばらしい。たしかに、これは美しいな」
 重低音の応(いら)えがあったかと思うと、射抜くような眼光で達樹を見下ろしていた男がふいに腰をかがめて腕を伸ばし、達樹の顎を捉えて顔を上げさせた。
「うっ・・・」
 強い指で顎を押さえられ、強引に視線を向けられる。
 顔が近づくと、隠されてはいても男の顔立ちがとても彫が深いことが分かる。茶褐色の目蓋を縁取る黒々とした睫毛と、それら力強いパーツには不似合いな淡いすみれ色の瞳がどこかアンバランスだと達樹は思った。
「闇よりも深い色合いの黒髪に、絹のごとき輝きの素肌か。それにこの首筋の細いこと―――少し力を入れただけで簡単に手折ってしまいそうだな」
 達樹の顎にかかった長い指に力がこもった。
 怖い言葉に、達樹の肩がびくりと震える。
(ぎゃあああ! た、たたた、手折るって! な、なんつーことを普通に抜かすんだこのおっさん! んな簡単に人を殺すな!!)
 思いのほか強い指先に、本当に首の骨を折られてしまいそうで怖い。
 だがクリイガは達樹の内心をよそに、そのまま左右に顎を向け顔全体を観察した。
「眉も鼻梁も、耳の形までもじつに愛らしい。じっと見つめていると思わず舌を這わせたくなる。この白い肌の下には血ではなく花の蜜が流れているのではないか? なんと甘そうな身体なのだ。じつにすばらしい。ギヨーム、この子はいったいどこで見つけたのだね?」
 算段どおりの好感触に、ギヨームは破顔して声を高くした。
「それがね、旦那。この近くの宿場町に若い下男をひとりだけ連れて歩いてたんでさ」
「ほう?」
「そのお供が離れた隙に人目につかねえよう、慎重にかっさらってきたから、絶対に足は付かねえって保障しますぜ」
 得意げに話すギヨームの横で、しかしクリイガは強(こわ)い表情を崩さず、さらに眼光を鋭くして達樹の全身を眺めた。
(ぎゃあ! 睨んでる!?)
 小心者の達樹は思わず目を逸らす。
 蛇に睨まれたカエルって、まさにこういう状況なんだろな! う、でもしょうがないじゃん! このおっさんにはなんか逆らえない感じがするんだもんよ・・・!
 顎から指が離れ、クリイガは腰を伸ばしたようだったが、全身に感じる威圧感はそのまま残っている。
「忍ぶ旅路ということか。だが、供が一人とは無用心な・・・」
「おかげでこっちはツイてましたがね。それで旦那、さっそくだが俺の見立てで二百オングじゃどうです?」
 ギヨームの提示した金額に、仲間の男たちがごくりと息を飲み込んだようだった。オングは金貨の単位のことで、二百オングといえば五人で山分けしても各人が一年は余裕で遊んで暮らせる大金のことである。
(えええ? 金貨二百枚? ちょっと高くね? お、俺だよ!? たしかこっちの世界って、金貨一枚がだいたい二十万円くらいの価値で・・・)
 金貨一枚で、一般的な四人家族がひと月じゅうぶん生活できるのだそうだ。
 クリイガは視線を達樹から外し、矮躯のギヨームをつと見下ろした。
「二百?」
「旦那なら決して高くないはずですぜ。旦那は俺の商売相手のなかでダントツに物を見る目がある。そして下手な買い物をしねえってのも旦那のいいところだ」
 ギヨームの言葉に、クリイガは黒い口布の下で小さく笑ったようだった。
「無論、私もそれは自負しているがね。これほどまでに麗しい花だ。今、手元にあれば即金で引き取り連れて帰りたいところだ」
「さすがは旦那! それじゃあさっそく―――」
「だが」
 もみ手をせんばかりのギヨームを、クリイガは静かに遮った。
「今回は破談にさせてもらおう」
「え?」
「この子は買わない、と言ったのだよ」
「あ? だ、旦那、そりゃどういう冗談ですかい!?」
「冗談ではない。―――この子の素性が読めないものでね」
 クリイガはふたたび腰を折って達樹の顔に手を伸ばした。指先が、やわらかな耳朶に触れる。そこには、女神が祝福で達樹に与えた大振りなピアスが嵌っている。
 リヒトによって真珠だのルビーだのさまざまな宝石をあれこれ付け替えられているが、これが一番達樹に似合っているらしく、暁城までの移動中こそ目立たぬように小振りな細工の真珠のピアスをしていたのだが、今朝からはさっそくこのピアスが衣装とともに用意されていた。
 最初こそ耳に重石をつけられているようで違和感があったのだが、こうも常時つけさせられているのでそういえば今ではすっかり馴染んでしまっている。
 ピアスだけではない。マントの下になって見えないが、お揃いの首飾りと、重量たっぷりの金のバングル、それに足首にも同色の輝きが違和感なく馴染んで巻きついているのだ。
(こんなじゃらじゃらアクセサリー付けて、なんとも思わない高校生の男って・・・)
 うぎゃあ、イタい奴だ!!
 以前の自分はこんなじゃなかった。
 日本に帰ったとき、ちゃんと元の普通の生活に戻ることができるのだろうか?
 一瞬今の状況を忘れ、別の意味で急に不安になった達樹である。


「素性だって? そんなもの・・・どうせその辺の温泉に遊びにやってきた貴族の子供だろうさ。お上品な、スレてねぇガキのほうが価値があるって、まえに旦那が俺に言ったんじゃねえか!」
 納得のいかないギヨームは荒々しく吐き捨てた。
「それは今でも否定はしない。いくら天上の美貌があろうと、俗世に塗れて心根の荒んだ者はいけない。その点この子は見るかぎりそうではないようだ。その上、この貌に、この肢体。完璧だ。すばらしい」
「ならよ・・・!」
「ご覧、この子の身に着けているものを、外套こそ粗末なものだが、その下に見える長衣は最高級の絹布に最上の手刺繍。いや、それだけならば貴族に限らず大商人の子息でも着ているだろうが・・・」
 クリイガの爪先が、達樹の耳元で揺れるピアスを弾いた。
(うぎゃっ! ななな、なに!? 今度はなんなの!?)
 ローカイムの花をかたどった金の細工に、七色に光る乳白色の大振りな石がついている。
 宝石の価値など一ミリも分からない達樹は、サーラ様の趣味で与えられたこのピアスなど、単なる金目のモノとしか認識していないのだが。
「・・・このミラリエンという石は、ユーフィール国の最北の山でしか採れない石なのだが、非常に希少で年に一つ、原石が見つかるかどうかという珍しい宝石だ。とても小さな結晶にしか成長しないとされているが・・・これは立派だな。しかも両耳か」
 両耳どころか、首にはもっと大きな石がぶら下がっている。
「ミラリエンだって? これが? あの?」
 ギヨームが驚いたように達樹の耳のピアスを見た。
「初めて見たぜ・・・」
 仲間の男たちも目を見張って達樹のピアスについた宝石を凝視しているので、逆に達樹のほうが驚いてしまった。
(ええっ!? これってそんななの!? って高いの!? いやでもそんなに驚愕されるほどのって・・・逆に迷惑なんですけど!!)
 やっぱり、あの三姉妹神はろくなことをしない・・・。
 この世界に来たとき、あの森で捨てておけば良かった。いやでも路銀にしようと思っていたわけだし。無一文だったし。リヒトのところから逃げ出してきた今だって、住所不定無職の無一文なわけでやっぱり当面の生活費にしようと思っていたし。
(うぎゃあ!! でもやっぱさっさと売っ払っとけばよかった!)
「この石を持てる者は少ない。貴族のなかでもそうはいるまい。過去、この石は直系王族のものとされていたし、他の大陸との外交のためだけに使用されていたこともあるそうだ」
「王族!? っつうことは、こいつ、このお嬢ちゃん、いや、お坊ちゃん・・・っじゃなくて、王子サマか? えーと」
「いや、それはないだろう。リサーク王家の王子は三人いるが、みなとっくに成人している。かといって王家と縁のある上級貴族の子息にも見たことがない。遠方の領地に住まう貴族としても、噂くらいは耳に入るだろうからな。考えられるとすれば、あとは外国の王族に連なる者か―――」
 ギヨームは達樹を見下ろして唖然とし、あいた口が塞がらないでいるようだった。


 人買いの悪党がなぜ貴族の子弟のことまで知っているのか。クリイガという男の言葉は絶対だとギヨームたちが信じているらしいその態度に、達樹はますますこの男が怖ろしくなった。
「おまえが上手くこの子を攫ってきて決して足がつかぬのだとは言っても、素性の分からぬものを買うわけにはいかない。どこから探索の手が伸びるやも知れぬ者を、たとえ密かにでも囲うことはできぬ。なにより、この子は目立ちすぎるのだ。これほどの美貌を、世間に隠しておける男がいるだろうか?」
 ミラリエンの耳飾りを堂々と身に着けて遜色ない気品。
 この白い肌の上をもっと飾らせて、自分好みに染め上げ。
 艶やかな睫毛の内側の、濡れたように光る黒い瞳に見つめられれば。
 側に侍らせてそれだけで満足できる男が、この世のいったいどこに―――?
「―――自分の物なのだと、自分だけの物だと世界中にふれ回りたくなるに違いあるまい」
 クリイガの重低音の声が、小屋のなかに静かに響く。
 ジジ・・・とロウソクの芯の燃える音と、ガラス窓の外でざわめく葉擦れの音。
「危険な橋は渡らぬことにしているのだよ。だから今回の件は手を引かせてもらおう」
 非常に残念だがね。
 クリイガはそう述べると、しかし言葉とは裏腹にあっさりと小屋を出て行ってしまった。
 手綱を引いたのだろう、馬のいななく甲高い声がし、やがてそれが遠ざかっていった。








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