第2章 30 「」が異世界語・『』が日本語 ロザモンドの性別が本当は男であるとばれるわけにはいかないため、屋敷のなかでも彼はずっと女の子の格好をして育てられた。 屋敷から出ることもない。せいぜいが、早朝、乳母か侍女に連れられ、ベールを深くかぶって中庭を散歩するくらいがロザモンドにとっての外出であり、あとは大人しく自室で本を読むか、本当の女の子のように刺繍をしたりして過ごした。 夫妻はロザモンドを生涯領地から出すつもりはなく、イリエ家の五番目の子供は表立ってはいないものとして扱われ、公には決して姿を現さず、二十六歳の今まで、ひっそりと、ひっそりと暮らしてきたのだ。 「わたくしも家族も、それで満足だったのです。ですが―――」 それが、どういうわけか婚期もすぎた今になって、トライスの婚約者になってしまった。問題児ではあるが上級貴族の子弟には違いないトライスに、ジュノス二位爵がその家柄に見合う、それでいて醜聞まみれのトライスに嫁いでくれそうな条件の未婚の娘を探していたところ、なんの気紛れか国王がロザモンドのことをふと思い出したのだそうだ。 かつて自分が産着を贈った赤子は、調べさせればいまだ独身で領内にいるらしい。 イリエ家とジュノス家ならば家格も釣り合う。それに健康であるにもかかわらず、二十六にもなって一度も縁談の話もなく、婚約すらしたことがないという。上級貴族の子女としてはありえないことで、なにか性格に問題のある姫なのかもしれない。ならば、問題児のトライスとも合うのじゃないか。 ―――面白かろう。 カインベルクは楽しげにそう言って、簡単に話をまとめてしまった。 問題ならば、多いにある。 結婚などできない男の身体なのである。だが、いまさらそれを告白するわけにはいかないのだ。 「はじめはわたくしの身代わりを立て、このライナがわたくしに成りすましてトライス様に嫁ぐはずでした・・・しかし」 万が一にもそれがばれることがあれば、そのときこそ、どうなることか―――。 イリエ家だけでなく、身代わりとなったライナ自身と、彼女の家族にもきっと累が及ぶことは必至で、兄の乳姉弟でもある彼女に、とてもじゃないがそんな危険なことをさせるわけにはいかなかった。 両親と兄弟がさまざま思案苦慮してくれるなかで、ロザモンドはある提案をした。 ならば、トライスがロザモンドを心底嫌がり、名ばかりの結婚になるようにすればいい。 顔も見たくないほどに嫌ってくれれば。 「王都にまで浮名を響かすトライス様のこと、わざわざ虫の好かない妻とずっと一緒にいることはないでしょう」 うまくいけば、まともに顔を合わすことなく離婚してくれるかもしれない。無愛想で礼儀知らずな妻ならば、たとえ破談となってもトライスが悪く言われることもない。 それで、行儀見習いとして半年前にこの暁城にやってきてからというもの、ロザモンドは誰とも口を利かず、無愛想を貫き、陰気に閉じこもって悪い噂ばかりを立てるよう仕向けていたのだそうだ。 そ、そんな事情があったとは・・・。 達樹は呆然とロザモンドを、そしてその側で泣き崩れる侍女のライナの姿を見やった。 (いや、でも、だって、そんな理由で二十六年も女装をって? そんでもって結婚をごまかすためにわざと嫌われるって?) なんだよ、それ・・・。 平和な日本で健全に生きてきた達樹にはちょっと考えられない事情である。 本当は男なのに、女性として生きなければならないなんて、好きでやっているのでなければ辛いだけだろう。しかも思うように外出もできず、閉じ込められるように屋敷のなかに押し込められて生活してきたらしい。 ロザモンドの抜けるような色の白さもそのせいか。きっと、思うさま陽に当たることもなかったのだろう。 床に膝をつくほっそりとした後ろ姿。その細いうなじは達樹の目にはか弱く、痛々しく映った。 ただの一度も顔を見せない陰気な花嫁。 初夜はおろか、婚礼の式での口付けさえ応じるつもりはなかったのだという。 トライスに恥をかかせ、ふてぶてしく、なんと高慢な女なのだと周囲にも知らしめるつもりであった。 ロザモンドの正体がばれぬよう、必死だったのだ。エン領を治める名門貴族としての家族の運命が、いや、その生命がといってもいいかもしれない。すべてが、彼ひとりの華奢な双肩にかかっていたのだから。 だが、覚悟はしていたものの、次第に増えてくる豪勢な招待客の気配と館内の雰囲気に、ロザモンドはやはり怖気づいてしまったのだ。 このままこの城でトライスを騙し続けることができるのだろうか。 あれほどの華やかな人たちのなかで、果たして本当に気位の高い女性を演じきることができるのだろうか。なかには目敏い人がいて、ロザモンドの性別さえ見破られてしまうかもしれない・・・。 蝋燭と銀器と花束で飾り付けられた、華燭の典の晴れ舞台。 豪奢な大広間の艶やかな絨毯の上に立つ自分を、紛い物の花嫁であるその姿を、目蓋の裏に想像するだけで、ロザモンドは思わず膝の力が抜け気を失いそうになった。 「・・・殿下の侍従殿に声をかけ、館から出ていただくよう仕向けたのは、ひとえに騒動が起き少しでも婚儀が先延ばしされればというわたくしの短慮によるものです」 トライスを騙し続けるという決心が、少し鈍ってしまったための、浅はかな考え。 ロザモンドはゆっくりと立ち上がり、達樹を振り返った。 白い頬をわずかに青褪めさせて、自分を見上げるその黒い大きな瞳。 達樹に預けた手紙には、ロザモンドの事情を知っているライナの母に、リヒタイト殿下の侍従をしばらく王都に留めておいてもらえるよう書いてあった。 少しでも、いや少しだけ、怖気づいた心を立ち直らせるための時間が欲しかったのだ。 なのに、それがまさか、人買いに攫われてしまうだなんて―――。 「無事に戻られて、本当に良かった・・・」 一歩間違えれば取り返しのつかない事態になっていたことだろう。 リヒト王子の隣りに立つ愛らしい小柄な侍従の姿に、ロザモンドは改めて自分の行動の愚かさを悔いた。 王子の手がしっかりと達樹の肩を支えている。 それほどまでに大事な侍従を、その命を脅かすようなきっかけを、たとえロザモンドにそのつもりはなくとも結果、作ってしまったのは確かである。 「侍従殿には、怖い思いをさせ、本当に申し訳ないことを致しました・・・。いえ、謝って済むことだとは、ゆめゆめ思ってもおりません」 悄然としていたロザモンドの表情が、ゆっくりと瞬きをした後、何かを決心したように凛と上向いた。 「侍従殿をかどわかした罪。そして男の身でありながらジュノス二位爵家へ嫁ぐなど、トライス様や国王陛下を謀った罪。これらはとても許されることではないでしょう」 一歩下がり、トライスとリヒト、両方を見渡せる位置で膝を折り、胸のまえで指を組んで深く頭を垂れる。 「ですが、お願いでございます。わたくしはどうなっても構いません。しかし、わたくしの両親と兄弟、そしてこのライナの命ばかりはお助けください。わたくしの首ひとつですべての罪を購うことを、どうか、どうか、お許しくださいませ・・・!」 「―――罪はそればかりではないだろう」 ロザモンドを静かに見下ろしていたリヒトが、やがて低く口を開いた。 「あなたにはこの館の下女、ミシャという娘を殺害した嫌疑がかけられている」 「ミシャを、殺害・・・?」 思わずといったふうに顔を上げたロザモンドは、しかし茫然と目を丸くしていた。 「あの、殿下、あの子が死んだ・・・殺されたというのですか?」 「まさか心当たりがないとでも?」 「とんでもありません! ロザモンド様が、そのようなことをなさるはずがありません!」 突然会話に割り入ったのはライナである。泣きはらした目が真っ赤になって、それでもキッと眼光を鋭くして主人を庇った。 「ロザモンド様がミシャを殺めるなど、ありえませんわ!!」 声を高くするライナには目をくれず、リヒトは冷ややかに深緑の瞳でロザモンドを見つめた。 「あなたが何度も内密に薬師を手引きしていた事実は挙がっている。それは毒を仕入れるためではないのか?」 「毒、とは・・・」 またしてもライナは茫然となった。心底分からないといった表情である。 「あの子の病のために、たしかに何度か知り合いの薬師を呼び寄せましたが・・・」 「病だと?」 「はい。あの子―――ミシャは胸に持病を持っていて、たまに心臓の発作が起きるそうなのです。同じ症状の者がわたくしの実家にもおりましたから、薬を調合してもらうよう、エン領におります懇意の薬師にお願いをしておりました」 「・・・」 「それをこのライナに言いつけて、内密にミシャに渡しておりましたが・・・」 誰にも見つからぬよう、こっそり地下の貯蔵庫の奥に隠しておくのが約束だった。 先日はたまたまライナが用事で側におらず、仕方なくロザモンドが地下に出向いたのだ。それを、ほかの使用人に見られてしまっていたのだろう。 ならば。 ミシャが口にしたのは毒入りのリンゴではなく、ただのリンゴだ。 そして彼女の死因は毒薬ではなく、持病の発作。 「ミシャが亡くなったというのは本当ですか? あんないい子が・・・」 無愛想に振舞うロザモンドの態度に嫌な素振りもなく、ただただ懸命に下女の仕事をしてくれようとした。 ロザモンドにはそれがありがたく、そして彼女の持病を知ってかわいそうに思ったのだ。 高価な薬は自分の手持ちのわずかな宝石で賄った。それでも少ししか買えなくて、じゅうぶんな量の薬が手に入れられないことを心苦しく思っていたところだ。 「わたくしが、ちゃんと医者に見せてあげていれば・・・」 心痛に歪んだロザモンドの表情が、彼の無実をあらわしている。 執務室の扉近くから、「はあっ」と力の抜けた盛大な溜め息が聞こえた。 見れば、ルクスとヒューズががっくりと肩を落としている。 「なんだよ、それは」 「そりゃ、いくらリンゴと遺体を調べたって毒の種類が分かるはずがないよねえ。はなから死因が病死なんだから」 無味無臭もなにも、もとより毒など仕込まれていない。原因のないものを、その痕跡を辿ろうとしても土台無理な話である。 二人の騎士だけでなく、トライスやリヒトからも力が抜けたようだった。張り詰めていた室内の、その緊迫した空気が瞬時に緩んだようだった。
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