第3章 1



   「」が異世界語・『』が日本語




 その日もまたユディト大神官長に呼ばれた小姓のリオは、カリフ城第五塔の続き棟にある神殿へと小走りに向かっていた。
 頬のなかばで切り揃えられた赤毛が揺れ、少年らしいそばかすの浮いた幼い顔立ちがそのたびに見え隠れする。
 大神官長からの召喚があったのは昨日のうちであったが、宰相閣下よりリオが世話を任されている第二塔の青年のもとへ王が通われた直後であったため、その呼び出しに応じすぐに参殿することができなかったのだ。
 後始末のために王の侍医であるロイドを手伝い、後孔の処置や傷の手当をしなければならないし、また青年の身体を清めるための湯を運ぶのにも、浴室のある四階の王の私室から高い塔の最上階まで何度も往復するのは、13歳の少年であるリオにとっては骨の折れる作業なのである。
 王の訪れはつねに夕刻前のほんの一刻二刻ほどではあるが、なにもかもを終えると、リオが王宮内に与えられている自室にてようやく落ち着くことができるのは、他の小姓仲間たちがすっかり夕食を食べ終えて、そろそろ就寝しようかとあくびを始める頃になってしまう。
 行儀見習いのために王宮の小姓として出仕しているリオの実家は、王都で古くから五位爵を叙勲している上級貴族の名門で、彼はその継嗣である。出仕といっても、実際は王城内に出入りする貴族たちへの顔つなぎの意味が大きい。本来はそんな形ばかりの出仕であったはずなのに、青年の世話をたった一人で任せられることになったリオは、寝台のリネンを取り替えたり青年の着替えを手伝ったり、まるで下男や下女がすべき仕事までしなければなからなくなった。
 実家では乳母や侍女がつき、若さまと呼ばれる立場であったのだ。ましてや端下仕事など、したことのないリオにとっては慣れないことばかりである。
 さらには、その世話をすべき人物とはお互いに言葉が通じないのだ。およそ感情の抜け落ちた青年の、乏しい表情から心の機微を読むことに優れるほどリオはまだ大人ではなく、彼がなにを思っているのかを想像することはとても難しい。
 ただ、毎日毎日顔を合わせ、洗髪粉で髪を梳いてあげているときや、薬や粥を口元まで運んであげたときなどに青年がぽつりとこぼす言葉。
 『ありがとう』
 リオにとって耳慣れない不思議な音階のその言葉は、聞くたび思わず首を傾げてしまうのだが、もしかしたら、感謝の言葉なのではないだろうかと思っている。
 それと、食事のまえに両の手のひらを合わせて呟くまじないのような言葉。
 『いただきます』
 これはきっと食事時の挨拶なのだろう。
 青年の名前は「アリタソウジ」と言うらしい。
 王は「アーリ」と呼んでいる。
 ほんの少し、とても微かに、ではあるが、青年に近づけているのではないかとリオは思う。
 元来素直な性格であるリオは、言われるままに、今の仕事をきちんとこなしている。
 決して嫌々ではなく、自ら青年のためになるよう心をこめて。
 だからこそ思うのだ。
 いつも窓から外を眺めている青年が、穏やかにいられますように。
 さざ波立つ青い湖面や、ゆったりと流れる白い雲を、ずっと、心静かに見つめていられますように。
 叶うならば、崇敬し臣従するカインベルク王が、これ以上、青年をひどく扱いませんように―――。



 神殿のある第五塔は、王の執務室がある第一塔をはさんですぐ隣り、ちょうど王家の森のある西側に位置する塔である。リーラ湖のある東側に位置する第二塔とはほぼ向かいの塔になる。
 神殿はその第五塔の続き棟で、一階の渡り廊下で王城と繋がっているが、それ自体は独立した建物である。
 小さな村がすっぽり収まるほどの広大な敷地を持つカリフ城においては、城内の移動といえどもけっこうな距離を歩まねばならない。
 昨日の王の渡り以降、案の定、熱を出して寝込んでいる青年に薬湯を飲ませた後、早足で急ぎ神殿までやってきたリオは、一階の渡り廊下から神殿のまえの扉に到着したときには、軽く息切れしをし小さく肩を上下する有り様だった。
 扉のまえに立つ近衛騎士に軽く目礼し、背の高い重厚な木製の扉を開いてもらう。
 神殿内部の造りは各地にある大きめの祈祷所とほぼ変わりがないが、灰色の石造りがほとんどのそれらに対し、白亜のカリフ城にある神殿は外観も内壁も白い石でできている。
 装飾のほとんどない素っ気ない祈祷所の四角い建物とは違い、神殿の壁面は至るところにローカイムの花をかたどった彫刻がほどこされ、細い尖塔がアーチを描く飛び梁によって何本も繋がる美麗な造りになっている。
 身廊に並べられた長椅子は、市井の祈祷所にあるような質素なものではなく、王侯たちの身分に相応しい深い緑色のビロード張りの、背もたれに精巧な細工のほどこされた芸術的なソファがゆったりと置かれていて、奥の祭壇は天上が高くなっており、天窓から射す陽光が女神の像を神々しく照らしていて、壁に埋まったステンドグラスからは音楽を奏でるかのように絶えず様々な色の光がこぼれていた。
 リオは扉を入ってすぐ右手、身廊の手前にある石の階段を上り、二階の最奥にある大神官長の執務室へ向かった。ここまでは何度も足を運んでいるため、迷いなく尋ねることができる。
 ユディト大神官に呼ばれるのは、今日が初めてではない。
 なんのために呼ばれているのかも、だからリオはすでに承知している。 
 いったん息を整えてから、良く磨かれたマホガニーの扉の金環の取っ手を持ち上げて、三度ノックする。
「どうぞ、お入りなさい」
 中からの応(いら)えは、すぐにあった。



 リオを迎え入れたユディト大神官は、肩までの白髪と白いひげが目を引く、柔和な面立ちの人物である。小柄であるがふくよかな体躯と、七十近い老齢がかもす穏やかな雰囲気は、一見気安さを感じさせる。だが、白い神官服の肩に掛けられた金帯に描かれた、ローカイムの花と五頭鷲のカリフの鮮やかな印章は、大神官長という、全国に数多ある神官たちの頂点に立つ存在であることを知らしめ、またその眼差しにただよう静謐な気品は、ただの老人とは違う凛とした光りを発していて、間近に寄れば慣れぬ者ならば緊張さえ強いられるだろう。
「ユディト様、遅くなりまして、申し訳ありません」
 頭を垂れて挨拶するリオを、まるで孫を見るような慈愛のこもった目でユディトは見つめた。実際、リオとは祖父と孫以上に歳が離れている。
「構わんよ。あなたにも仕事があるのは知っていて呼びつけているのだから」
 笑顔で入室を促して、ユディトはリオに椅子を勧め、自分も向かいのソファに腰かけた。
 大神官長の執務室は、そう広くはないが、神殿の優美な外観に相応しい、慎ましくも瀟洒な内装に囲まれていた。壁一面の大きな窓からは広がる青空が一望できる。
 入り口の扉とは別に室内から私室へとつながる扉があり、そこから茶器をさげた若い神官がやってきて二人の前に香草茶と、リオのために焼き菓子を給仕し、また隣室へと下がっていった。
 緋色の帯を腰に垂らした神官の姿が見えなくなり、リオと二人きりになってから再びユディトが口を開いた。
「それで、かの者の様子はどうだ?」
 かの者、とはリオが世話をしている第二塔最上階に住まう青年のことだ。
 ユディトがリオを呼びつける用件というのは、青年について秘密裏に尋ねることであった。
 最初にユディトから青年について聞かれたときにはリオは驚いた。マーシュから塔の住人について口止めされていたため、他に青年のことを知っている人がいるとは思わなかったのだ。
 だがユディトから、青年の存在を彼がすでに知っていると、王もそれは承知であることを告げられ、それからリオはユディトの召喚に応じるようになった。リオの行動に気付いているだろうマーシュが特になにも言ってこないということは、リオが大神官長に呼ばれていることは王が黙認しているということだ。でなければ、リオがこちらで口を開くはずがなかった。
 この国の誰も、カインベルク王を欺ける者などない。
「はい。相変わらず、私ともマーシュ様とも会話はありません」
「陛下とはなにか話している様子か?」
「それは・・・陛下がお越しのときには、僕は下がっておらねばなりませんから・・・」
 言葉が通じないのだから、たとえ王相手でも話などはできないだろう。
 リオはそう思って小首を傾げた。ユディトはすぐに察したようだった。
「口が利けぬわけではないのだろうに」
「はい。外国の言葉を、洩らされることはあります。意味は・・・はっきりとは分からないのですが」
 やはり、とユディトはうなずいた。
 彼の様子は、あの日、黄金の鹿狩りがあった日に、王家の森から連れ去られてきたときのままなのだ。
 あれからすでに三箇月近くが経とうというのに。
「最近になって陛下はよく通っておられるようだ」
「はい。五日に一度はお越しになられます」
 そしてその度に、青年は傷つき、熱を出して寝込んでいる。青白い青年の顔を思い出し、リオは少しだけ顔を歪ませた。
 事前の処置を行うようになってからはほとんど血が流れることはなくなったが、それでも決まって彼が発熱するのは精神的な負担のためではないかとロイド医師が言っていた。それはマーシュに進言され、宰相シーヴァルを通して王へも伝わっているはずなのに、王の彼への態度は変わりがない。
 どうして、陛下は、こんな・・・。
 額に浮かぶ青年の脂汗を拭いながら、リオはいつも心を痛めるのだ。
 リオの哀しげな表情に、ユディトは王が青年になにをしているのか、聞かずとも悟ってしまった。

 ―――神官ども、今からこの者が真に神子であるかどうか試してやろう。

 あのとき、王の寝台での凶行を、ユディトはすぐ側で目の当たりにしていたのだから。
 止める術はなかった。
 青年が神子であるならば、王を諌められるのは、カインベルク自身が言った通り、それは王家を守護する女神たちのみだ。
 彼女たちの神罰をも恐れず青年の正体を見極めようという王の所業を、いったい誰が止められようか・・・!?
 誰も、王には逆らえぬ―――。








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