第3章 2 「」が異世界語・『』が日本語 その後退室の許可を得たリオと入れ替わるように、神殿への祈祷にシラーゴート王太子一家が訪れたと執務室へのノックがあった。 「ユーリアス王子もキカ王女も、本当に愛らしくお育ちでございますね」 幼い王族方にユディト大神官長への挨拶をねだられて迎えに来たのだと、やってきたマイラス大神官は相好を崩してその溌剌とした成長振りを微笑ましく称えた。 マイラスはユディトよりも十歳あまり若年で、今年五十七になる。神官見習いから正神官に昇格したときに王都の祈祷所から王宮の神殿へやってきた彼は、神官長、大神官補佐、そして今の地位である大神官になるまで異動なく勤めていて、だからユーリアス王子が本当に頑是ない赤ん坊であった頃からよく知っている。 「とても気さくで、私などへも気軽にお声をかけてくださいます。キカ王女はようやく私の顔を覚えてくださったようですよ」 「そうだな。お二人はシラーゴート殿下のお小さい頃によく似ておられる。・・・姿だけでなく、心根のまことに素直でお健やかなところも」 マイラスに先導され祭壇へと向かいながら、ユディトも深くうなずいた。マイラスだけではない。ユディトとて、二人のことは嬰児のときから知っているのだ。 まだ首も据わらぬ赤ん坊を抱き上げ、リーラ湖のほとりで洗礼式を執り行ったのは他でもないユディトなのだから。 その二人がすくすくと大きくなり、祭壇のまえに敷いたクッションに並んで膝をつき、大神官長であるユディトの詞(ことば)を競って復唱するようになった。その、小鳥がさえずるかのような声のなんと可愛らしいことか。 もう何度も目にした景色である、天窓から降り注ぐ金色の陽光を頭上に浴びながら、熱心に祈りを捧げているであろう王太子一家の姿を思い浮かべ、ユディトは自然と微笑んだ。 まるで絵画のように美しい光景なのだ。 神殿のなかで一家のその光景を間近に見られるのは、大神官長としてこの上なく喜ばしいものであった。 「ユディト様、シラーゴート殿下は、王族として本当に素晴らしい方ですね」 「ああ、そうだ」 大神官長と同じ思いでいるのだろう。マイラスはにっこりと笑ってしみじみと呟き、ユディトも瞑目して同調した。 王家を守護する神々に祈りを捧げるのは、祭主たる王族たちのなによりの務めだ。 神々は王家へ加護を与えることによって国を護るといわれている。 信仰なくして加護はなく、神々は王家のためにあり、王家は国家のためにある。 それはどの国でも当たり前のことだ。 神々に最も近い位置にあるのは王家であり、だからこそ彼らは神々に寄りそい、畏れ、敬い、感謝し、多くを祈らねばならない。 そうであるはずなのに―――。 その信仰のための祈りを誰よりも最も多く捧げねばならぬはずのカインベルク王は、月に決まった日、決まった時間を明確に割り当て、まるで数ある単調な執務のひとつであるかのように、義務的にしか神殿に足を運ばなかった。 なんと彼は、世継ぎになるシラーゴート王子の誕生のときですら女神たちの祭壇にひざまずくことをしなかったのだ。 国王として王妃と協力し世継ぎを作るのは当然の義務とそれによる結果で、そこに女神の力は介在しないとでもいうかのようだった。健康に生まれたのは王妃の胎教と医師らの努力のたまもので、つつがなく育ったのは環境のおかげだとでもいうように―――。 その王を間近に見て育った第二王子であるヒースイットは学問の徒に下り、科学的な思考で合理的な理論をなにより重視しているようだし、近衛騎士となった第三王子リヒタイトは武力と規律を思想の根本に据えているように思う。 もちろんそれらが悪いというわけでは決してない。むしろ、国家の安寧にはどちらも必要な要素であるだろう。 事実、国が学者や商人を篤く保護することによって外交が発展し、騎士を増やすことによって犯罪が減ったことは確かなのだ。おかげで商業国を謳うユーフィール王国は、カインベルク王の時代になって磐石な礎を築いたといっても過言ではない。 (だが・・・) ユディトはゆっくりと皺深い目蓋を開いた。 神殿内部を埋め尽くす美しい白い床石。 広い廊下の左右には、神官たちの部屋の扉と、壁には銀とガラスでできた燭台が並んで飾られている。 壮麗なるカリフ城が抱えるに相応しい、優美なる神殿。 これらはみな、歴代の王たちが女神に祈り、その祝福を得て、国を護り、今へと繋がってでき上がったものだ。 五百年というリサーク王家の積年の信仰心が作り上げたものだ。 カインベルク陛下の治世が素晴らしいのは分かっている。その、後世に語り継がれて残るだろう功績も。それほどまでに偉大なる王であるのは間違いない。 (しかし、だとしても陛下お一人で国ができているわけではないのだ・・・) ユディトはまっすぐ前方にある階下へと繋がる階段を見つめた。 その先には、身廊の最奥の祭壇に三姉妹神が祀られている。 彼女たちこそ、リサーク王家のためだけに生まれた神々である。 王家の開闢の歴史から、連綿と続く血脈を誰よりも見守っているはずの―――。 だからこそ、神官としてのユディトは言わずしてはおれぬ。 信仰なくして加護はないのだ、と。 それは執務の感覚で行うものではなく、また、気紛れでなされるものでもない。 己が血統を護り給う女神を敬う、純粋な気持ちが必要だ。 そう。たとえばシラーゴート王子のように。 彼は穏やかな気質で常に女神たちへの感謝や、報告や、謝罪や、さまざまな祈りを忘れない。彼とて必ず毎日ここへ訪れるわけではないが、しかし祈祷は彼にとって気負いのない習慣となっているようだった。 それこそ、王家と神殿の本来の姿だ。 カインベルク以前の王たちが常にやってきた姿であり、カインベルクだけが王として異質なのである。 ふと、ユディトは歩いていた足を止めてマイラスを呼び止めた。 「・・・マイラス、例の件はどんな状況か?」 いくぶん潜められた瞬間、ぴたりと足を止めてゆっくりと振り返ったマイラスは、その質問に表情を硬くした。 「黄金の鹿、ですね」 今、ユディトはその大鹿を探している。 先ごろカインベルクが王家の森に放ち己の狩猟の獲物にしてしまった、黄金の鹿を。 今度こそ、獲物ではなく、供物にしてもらうために。 二十年前と、今年と、黄金の鹿は二度も女神に捧げられることがなかった。 それを、ユディトはなんとしてもやり直したいのだ。 「まだ、なんとも・・・現在はグロース祈祷所とケルリヒ祈祷所のほか、王都周辺の十五の祈祷所から神官たちを方々に遣わせておりますが、やはり見つからないようです」 「そうか・・・」 すぐには無理もない、とユディトは溜め息をついた。 「もともとあれは滅多に見つかるものではない。だからこそ、恭しく女神に捧げられるようになったのだから。見つけようと思って見つけられるものではないのだ」 「しかし二十年ごとの祭りには、必ず見つかっているのでしょう?」 「それは少し違う。祭りが二十年ごとに必ずあるのではなく、黄金の鹿が見つかったから、祭りを執り行うというのが本来は正しい。それほどまでに希少な存在なのだ」 だからこそ、常にはない人員を投じて探させている。 しかも女神に捧げられる鹿は捕らえる際に傷をつけてはいけないとされていて、だから落とし穴やバネ式の足枷といった罠を仕掛けておくことができない。 黄金の大鹿の血は、祭壇のまえで女神への祈りとともに初めて流されなければならないものだ。 よって黄金の鹿を捕らえるには、まずその姿を見つけたら跡をつけ、鹿が深い眠りに落ちるのを待つ。その眠っている隙をついて近づき、柔らかな綿を貼った絹の紐で傷つけないようにその四肢をしばるのだが、もちろん野生の動物だから普通ならばいくら眠っていても、人が近づけば敏感に気配を察して逃げられてしまう。 だから鹿を酩酊させる効果のある香を焚き、俊敏な動きができないようにしてやるのだが、鹿は少しでも眠りが浅いときにこの香に触れるとびっくりしてやはり逃げてしまうので、その浅い眠りから本当に深く寝入るまでじっくりと待たなければならない。この浅い眠りと深い眠りの判断がつきにくく、しかも深い眠りは時間が非常に短いために、香を焚く機会を図るのが難しいのだ。 見つけるのも捕らえるのも非常に困難なのは、それが女神に相応しい神聖なる動物だからだと言われている。 うまくいくのは偶然に近い奇跡のような確率だった。 「それでも、必ず見つけなければならない」 ユディトははっきりとマイラスに告げた。 それすらまた王の鹿狩りの獲物にされてしまったら、また探す。 何度でも探して、必ず祭壇へと捧げていただく。 「必ず・・・」 誓いのようなユディトの言葉を、マイラスは頭を垂れて受け取った。 耳を澄ませれば、階下からユーリアス王子とキカ王女の楽しげな笑い声がここまで響いてくるようだった。 それを穏やかに見守っているだろう、シラーゴート王子の顔がユディトの目に浮かぶ。 ときおり、ふと、ユディトは口にできない考えが脳裏をよぎることがある。 神殿は王家と対立できない、対立する必要がないはずなのに。 本来はそれを考えることさえ許されないことだろうに。 女神が神子を遣わせてさえ、王の態度が変わらないのならば。 このままでは。 女神の加護がなくならぬうちに。 シラーゴート王太子殿下が、早く即位なさればいいのではないか、と―――。
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