第3章 5



   「」が異世界語・『』が日本語



 その後、遠慮がちなノックが聞こえ、従騎士のコーノがリヒトを呼びに来た。これからリヒトは王城にある近衛騎士団の執務室に出向かなければならないというのだが、「お急ぎください」とのコーノの促しにも係わらず、王子様は鷹揚な態度で着替えをしゆったりと朝食を摂ってからのご出勤であった。
 それから達樹は屋敷でなにをしているのかと言えば―――。


 じつは、なにもしていない。
 リヒトが王城へ行っている間は日がな一日、一人で本を読んでいたりお茶を飲んでボーっと庭を眺めていたり、なまけもののような生活を送っている。
 たった今も、つい先ほどリヒトを送り出した家令のミヤ青年が、「今日は天気がよろしいですから、中庭にでも出てみませんか?」とさりげなく用意してくれたお茶と焼き菓子のティータイムセットを、爽やかな朝の風に頬を撫でられながら籐の長椅子に半分寝そべって怠惰に頂いているという有閑っぷり。
 このスコーンみたいなやつ、美味しい・・・。
 日本じゃ蜂蜜なんてあんまし食わなかったけど、こっちの世界にきてちょっと嵌っちゃったっていうか、目覚めたっていうか。
 指にまで垂れた黄金色の甘い蜜を行儀悪く舐め取りながら、達樹はぼんやりと空を見上げた。
 のどかな小鳥の鳴き声が聞こえ、広がる青空と流れる白い雲にどこまでも気分がだれてくる。
(えーっと、俺、こんなんでいいんかな・・・)
 いや、本当は良くないだろう。達樹には全うすべき重要な使命があるのだから。
 考えるまでもなくだらだらしているヒマなどないはずなのであるが、この屋敷でリヒトの庇護下にあるかぎり、達樹は身動きが取れないでいるのだった。
 それというのも、以前から結構感じていた達樹に対するリヒトの過保護が、先日ロンバーク地方であったトライスたちの結婚式から戻ってきてからというもの、パワーアップしているような気がするのだ。正確には、森のなかの荒小屋に連れ込まれ、ギヨームら悪漢に寸でのところまで襲われてから―――。
 颯爽と現れておのれの手で達樹を救い出したリヒタイト王子は、以来、常に達樹を決して一人にすることがないよう周囲に厳命してしまった。
 今だって、リヒトの屋敷のなかで、こうしてただぼんやりとお茶を楽しむだけで、誰かしら達樹を見守っている者がいるのだ。
 ふと視線をずらせばそこには庭師らしき青年と、その隣りに直立して庭じゅうに目を光らせている壮年の男がいる。腰に長剣を佩いているところから、男は多分騎士団の一人なのだろう。
「タツキ様、少し風がありますから、こちらのひざ掛けをなさってください」
 自身も家令としての仕事で忙しいはずなのに、こうして甲斐甲斐しく達樹の世話をやいてくるミヤにも大変申し訳なく思う。
(俺、ただの居候なのにな・・・)
「あ、ありがとうございます・・・」
 これってカシミヤ!? かどうかは達樹にはまったく分からないのだが、とにかく軽くて柔らかくって暖かい毛織物らしき、光沢ある藍色のひざ掛けを笑顔とともに手渡され、達樹はそれを恐縮しながら受け取った。
 そういえば、暁城から戻ってきてからこっち、達樹は一歩もこの屋敷から出ていない。
 怖い目に逢うのは嫌なので、もう家出をしようなどとは考えないが・・・。
(こういうのなんっつったけ? 『ひきこもり』?)
 神子としても侍従としても、一応働く気はあるのだから、『ニート』とまでは言わないはずだが・・・。
 毎日毎日ごろごろと過ごしているのが憚られ、せめて以前していた屋敷内のこまごまとした下働きの手伝いをさせてくれとミヤに談判したら、とんでもないと固辞されてしまった。
 ―――屋敷内のことなどは私どもが致します。タツキ様はタツキ様にしかできないお仕事をなさってください。
 そう言い含められて、じゃあその仕事というのがなんなのかと尋ねれば、いわく、「リヒタイト王子のお見送りとお出迎え」であるとのミヤの返答で。
 つまり、恒例の「いってらっしゃいませ」と「お帰りなさいませ」のご挨拶だ。
(それってあれだ。侍従っていうより妻じゃねえの!?)
 うぎゃっ!!! 嫌だっ!!!
 自分で突っ込んで、自己嫌悪に陥ってしまった達樹である。
 溜め息を吐いた視界の端に映る騎士の男が、顔をこわばらせている。
(あーあ、あのおじさん、絶対俺のこと不審に思ってるよな。日がな一日、昼寝だー日向ぼっこだーお茶タイムだーで、だらだら過ごしてる訳わかんねー子供を見張ってなきゃなんねんだから)
 いくら王子様の命令とはいえ、どこの素性とも知れない者の警護など、理不尽にもほどがあるだろう。
(気の毒になあ・・・)
 と、ふたたび盛大な溜め息を吐いている、達樹は知らない。


 色とりどりに咲き乱れる花園のなか、気だるげに籐の長椅子にその細い身体を横たえる達樹の姿が、彼らの目にどんなに愛らしく映っているのかを。
 小鳥の声がすぐ頭上で聞こえれば、小さな顎を持ち上げ、ふいに視線を向けるその素直な所作がどんなに微笑ましく映っているか。
 陽の光りに透き通る白い肌と、風に揺れて輝く黒髪が、つい艶かしく映ってしまう瞬間を、身のうちに沸き起こる不穏な衝動を、どんなにか必死の理性で振り払っているのかという、彼らの渾身の努力を―――。


 ―――リヒタイト殿下の城下の屋敷には美の化身たる花の精霊が住んでおり、殿下はそれを大切に守っている。


 果たして近衛騎士団の間では、にわかにそんな噂が立っているのだが、そんなことを知る由もない達樹は、
(とりあえず今日の昼メシなにかなあ・・・)
 と、明後日なことをぼんやり考えているのだった。





 夜になり、ようやくリヒタイト王子が帰館したようだと、達樹に与えられている客間にミヤが報せに来てくれた。
 夕食は主が戻ってからと決められているのか、小腹が空いたらこれをどうぞと用意されていたビスケットを何枚かかじっているうちに、達樹はどうやらうたた寝していたらしい。いつの間にか、窓の外はすっかり日が暮れている。
「タツキ様、殿下がもうすぐお戻りでございます。ご一緒に出迎えのご準備をお願い致します」
 ノックの音に目が醒めて、ソファの上に身を起こした達樹は、起き抜けで寝ぼけたままの頭にミヤの言葉を理解させる。
(あーあー。出迎えの準備って、あーそうか。おかえりなさーいってやつだっけか・・・)
「タツキ様、私は先に玄関に行っておりますが、大丈夫ですか? お越し願えますか?」
「は、はい。もちろんです・・・」
 小間使いをさせてもらえないならば、達樹にできる仕事はとりあえず今はこれだけなのだから、衣食住を提供していただいている身の上であるかぎり、無下にすることはできない。
(昔から一宿一飯の恩義っつー言葉もあるしな!)
 達樹の場合、一宿一飯どころか三食昼寝のVIP待遇なのだから、当然出迎えないわけにはいかない。
 脱いでいた上着をふたたび肩からひっかけて袖を通し、ミヤのあとを追うようにして廊下に出る。
 廊下の壁にはすでに燭台に火が灯されており、そういえば、達樹の部屋の燭台にも灯りが点っていたことを思い出した。
 屋敷内は一定の時間になると下女たちが燭台に火を入れて回るから、達樹の寝ているうちにカリンかアイネがやってきたのだろう。
(ってことは、俺が口あけて間抜けな面で涎垂らして寝てるとこを、あの子たちにばっちり見られちゃったってことか!)
 うぎゃあああ!
 今更だけど、ほんっと俺って、男としていいとこ全然見せれてないよね!
 むしろイケてないとこばっか見られてるよね!
 王子様にハグ&チューされてうろたえてるとこや、バケツの湯を引っ被って濡れ鼠になってるとこや・・・。
(う、俺、最悪じゃん! これが日本なら、俺、クラスの女子に口聞いてもらえない派の男子に仲間入りじゃん!!)
 うぎゃあ、俺、サイテーだあっ!!
 せめてこれからでも挽回を・・・と、達樹は姿勢を正し、まっすぐ前を向いた。
 この廊下のすぐ先にある階段を降りれば、大きな両開きの扉のはまった正面玄関がある。
 その玄関の辺りがざわついているから、他の使用人たちも集まってきているのだろう。いつものように、そこにはカリンとアイネもいるはずだ。
 きりっと神子らしく(?)、優雅に微笑んで「やあ、リヒト君、お帰り! 今日も一日お疲れだったね!」とかすれば・・・。
 カッコイイ俺! を見せることにより、今までの醜態はチャラになってさらにはポイントアップもできるに違いない!
 カリンちゃんもアイネちゃんも「きゃあ。タツキくんって素敵! 今まで誤解してたけど、ホントはとってもカッコイイのね!」ってなるに違いない! きっとそうだ!
 そんな算段をつけながらニヤニヤとしまりのない顔で踊り場まで降りたところで、階段の先の玄関の扉を、内側からミヤが恭しく引いて開けるのが見えた。
 獅子のたてがみのごとき深い金髪のリヒトが現れ、ミヤは深々と頭を垂れてから腕を差し出し外套を受け取っている。
(さあ、リニューアル、俺!)
 驚け王子!
 と、目が合ったリヒトに微笑んで、「やあ」と言いかけたところで―――。


「え?」
 達樹は階段を踏み外した。


 うぎゃああああっ!!!
 なんでなんでなんで俺ってこんなにお約束なのぉ!!?
 またしてもドリフ!
 尻餅をつくのをなんとか踏みとどまろうと足裏に力を入れたせいで、逆に三段跳びのような不自然な足取りになって、まるで空中をダイブするかのような格好になる。
 とっ、と、止まんねーーー!!
 みんな、逃げて!!
 こうなったら、なにかにぶつからないかぎり勢いは止まらないだろう。例えば、正面玄関扉横の石の壁とか・・・。
(うぎゃああ! 俺のアホぉぉ・・・!!)
 来るであろう衝撃に備え、思わず目を瞑った達樹はしかし、なにかにぶつかって転がりはしたが、想像よりもその衝撃と痛みが少ないのに驚き、すぐに目を開けた。
 実際、陶器が割れるような激しい音もしたはずなのに、いったい・・・。
 長い腕が頭部や背中を守るようにして達樹の身体に巻きついている。
(えーっと、これって、もしや)
「・・・熱烈な出迎えだな。ボクちゃん」
 うぎゃっ! 王子様にぶつかっちゃった!!
 どうやらリヒトが達樹のもとに飛び出し、抱き込む形で一緒に床に転がってくれたらしい。
「あああ、あ、あの・・・」
「そんなに俺がいなくて寂しかったか? 可愛いやつだな」
 傍から見ればリヒトに床上に押し倒された姿勢のまま。
「ただいま、ボクちゃん」
 甘く見下ろし微笑んでくるリヒトの顔が、案の定、そのままゆっくりと達樹の唇めがけて近づいてくる。
(さっ、寂しいとか、んな訳あるかドアホー! い、いや、助けてくれたのはありがたいけど・・・それとこれとは話が別じゃこのヘンタイ!!)
「や、やめ―――」
 思いっきり反抗して身をよじろうとして、すぐ側でミヤの小さな悲鳴が聞こえた。
「殿下!!」
 その視線は、リヒトの右肩に注がれている。
 なんだ? とつられてそこに視線をやった達樹も、ミヤと同じように悲鳴を上げた。
「お、王子様っ!!」
 リヒトの肩に、鋭い白いものが突き刺さっている。
 視覚した途端、鼻をつくこの鉄のような臭いは―――。
「大事無い。それよりもボクちゃん、怪我はないか? どこか痛みは?」
 ん? と達樹ごと上体を起こしながら相変わらずの笑みで聞いてくる、その余裕の表情に達樹は頭が真っ白になる。
「わ、私は、痛くは、どこも・・・でも王子様が・・・」
「無事だな? ならばいい」
(なな、な、なんで・・・)
 こいつ・・・。
 よく見れば、額も切ったのだろう、リヒトの眉の上には血が滲んでいる。
 俺を庇って、こんな怪我を・・・。
 血が。血がいっぱい出て。
 シャツの染みはどんどん広がっているようだった。
 とっさに近寄ってくるミヤの足元から、ガチャガチャと甲高い音と水音が響く。
 達樹が落ちた際、階段下にあった大きな花瓶をひっかけて割り、その破片がリヒトの肩に突き刺さったのだった。達樹を抱き込んで床に転がったため、深く刺さってしまったのだろう。
「殿下、すぐに医師の手配を」
「いや、縫合はコーノができる。湯を沸かしてその準備と手伝いを、それから―――ボクちゃん? おい!?」
 間近に大量の出血を見た達樹は、思わずリヒトの腕のなかで失神してしまっていた。








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