第3章 9



   「」が異世界語・『』が日本語



 遠くの空を飛ぶ小さな黒い点の集合が、ふいにその影を乱し、瞬時、不自然に広がった。
 もやのように薄く広がったその影は、だがしかしまたすぐに、何事もなかったかのように集合し、北の山脈に向かって飛んでいく。
 ただ一羽。
 獲物にと狩られ空中より攫われたもの以外は―――。


 矢など届かぬはずの上空のその様子に、ヒースイットが思わず興味深げに片眉を持ち上げたのを、彼のすぐ眼前に腰かけていたシラーゴートが気付かぬはずがなかった。
 弟の視線の先を追い、首を巡らせて自分も空を眺め、「ああ」と頷く。
 その視線が少しばかり揺れるのは、二人が今はリーラ湖に浮かべた小船の上に居るからだ。
「あの辺り・・・父上が鷹狩りをしていらっしゃるのだ」
 一番の気に入りの大鷹を、また放っておられるのだろう、とその姿を思い浮かべながらシラーは応じた。
 二年前に禽舎で見たときは、捕らえたばかりでまだ目蓋に目縫いをほどこされたままであったが・・・。
 視界を隠されても怯えるでもない、美しい流線型のその気迫ある佇まいは、なるほど父上の気に入るところだと、王の鳥たるに相応しいと感じ入ったのをシラーはよく覚えている。
 老練な鷹匠の手により丹精込めて育てられ、さぞや勇猛なる空の王者へと成長したことだろう。
「父上は今朝からシーヴァル殿をお連れになって、しばしあちらに滞在されるそうだから」
 ギイ。とシラーが軽く動かした細長い白木の櫂が、澄んだ青い湖面にいくつもの真円の水紋を静かに広げた。
「しばらく滞在? あちら・・・というと、タロン離宮ですか?」
「ああ、そうだろうね」
 今、二人が小船を浮かべているこの広大なリーラ湖を囲むように植えられた雑木林の、その奥に王個人の資産であるタロン離宮がある。
 王城からもっとも近いこの離宮には、カインベルクは常より気軽に足を運ぶことが多かった。
「しかし近場での鷹狩りならば、わざわざ離宮で過ごされなくても王城に取って返すことも可能でしょうに。しばし滞在、ですか?」
 城からすぐ見下ろせる場所にあり、歩いてでも通える距離のその離宮の存在をヒースは思い浮かべ、疑問を兄に尋ねた。騎馬を率いての大掛かりな狩猟ならばともかく、カインベルクが気紛れに行ういつもの鷹狩りの場合、タロン離宮は一時の休息のために利用されることがほとんどだったからだ。
「私もそう思ったのだが。しかし近衛の書記官の話によると日を決めずに滞在なさると・・・。朝議のあとの急な決定で女官らも慌てて随行の準備をしていたから、やはり何日かはあちらで過ごされることになるのだろう」
「あと半月もすれば新緑祭の御前試合が行われるというこの忙しい時期に、王と宰相が揃って遊興のために城を抜け出したといわけですか」
「抜け出したなどと。滅多な言い方はしないほうがよい」
「でも、その通りでしょう?」
 咎めるような口ぶりだが、しかしそう述べるヒースの表情はひどく楽しげなようだった。
 くつくつと、喉から小さな忍び笑いがこぼれていて、さすがは自由闊達を身上とする父上らしいと、心から感心して誉めてさえいる。
 そんないたずらな様子の弟を諌めるように、シラーはじろりとねめつけた。



 櫂を急かせて船を進めるでもない。
 城壁からほど離れることもなく、ゆったりとリーラ湖のさざ波に揺られるまま、時折り湖面を撫でる微風に船首の向きを遊ばれながら、二人を乗せた小船は漂っている。
 直立して待機する王太子付きの侍従や近衛騎士たちの姿を湖岸に眺めながら、シラーゴートはすっと右腕を船の外に伸ばして青い湖水を掬い上げた。
 ほどよく冷たい水温は、子供の頃からよく馴染んだものだ。
 もう少し先、この位置からは雑木林に隠れて見えないが、少し入り江になっている岸があり、そこは他よりいくぶん浅瀬なこともあって、この弟や義弟妹と一緒に王妃らに連れられて何度も泳ぎに行っていた。
 あと二、三箇月もして蔓月や青葉月の頃になると、通年温暖なユーフィールの一年でも最も暖かい季節になる。幼い頃はその時期、毎日のように泳いでいたものだ。
 そういえば、ふと目に付いた魚を捕らえようとして、シラーを湖岸に待たせておもむろにヒースが着衣のまま飛び込み、護衛の騎士や侍従に泡を吹かせてしまったこともあった。
 あのとき、二人は父の執務室に呼ばれ、形ばかりの叱責を受けたあとにカインベルクに意見を聞かれた。
 シラーは騎士たちを心配させるという王子としての自覚のなさを恥じ、弟の無茶を止められなかった兄としての責任を詫びて事を重く受け止めたのだが。対してヒースは湖中の魚について嬉々として語り、それを捕らえるための次回策を練り報告していた。
 思えば、このリーラ湖に棲む魚の種類を覚えようとしたことが、ヒースイットを学問の道に進ませるきっかけとなったのだろう。



 そういえば、と弟に声をかけられ、船の下を泳ぐ小魚の群れに視線を落としていたシラーは顔を上げた。
「・・・せっかくリーラ湖に来ているのに、ご覧にならないのですか?」
 ご覧になる、とは。
 すぐに言葉の意味が分からずシラーが眉宇を寄せると、ヒースは困ったように苦笑したようだった。
「私の思い違いでしたか。兄上の侍従に聞いていたものですから」
「聞くって、何をだ?」
「ですから。近頃、兄上はこちらに足を運ばれるたびに、たとえ風の強い日にも強引に船を出して塔の上を眺めていらっしゃるのだと・・・」
 もちろん侍従たちは、兄上がなにをご覧になっているのかは知らないようですが、とヒースは言葉を足した。
「この位置から眺められる第二塔の上ということは、やはりあの青年をご覧になっていらしたのでしょう?」
「―――」
 どきりと、ヒースの指摘にシラーは息を飲んだ。
 突然強張った兄の顔に、ヒースは慌てて「すみませんでした」と謝る。
「いきなり、不躾でしたね。お許しください」
「い、いや・・・」
 それほどまでに、あからさまだったのかと。
 初めて第三者からの目で己の無自覚の行動を聞かされてシラーはうろたえた。


 気がつけば、こちらに足が向いているのだ。
 そして無意識に小船に乗り込んでいる。
 腰帯にはさんだ巾着の重み。―――すでに手に馴染んだ、青ガラスの小さな望遠鏡が入っている。
 いつもなら、遠くを見るためのそのガラスにすぐさま目蓋を押し当てているというのに。
 ただ。
 今は。
 シラーはそれを手にすることができないでいる。


 湖面の波紋に映る白亜の城壁。
 そこに伸びる第二塔の頂上に、たった今も彼は確かに居るのだろう。
 あえて視線をやらねば誰も気付かぬほどの、小さな窓辺に佇んで。
 この青空を、流れる白い雲を見上げているのだろう。
 しかし。
 この望遠鏡でその存在を確認して。
 もし。その彼の背後に父の姿があったら・・・?
 そう思った瞬間から、シラーは望遠鏡を取り出して彼の姿を覗き見ることができなくなったのだ。
 窓外に向いていた青年の視線を奪い取り、指を伸ばして彼の顎を掬い上げ、背後から覆いかぶさるように口付けを落とす父の姿を脳裏に想像してしまって以来―――。



(やはり、駄目だ・・・!)
 名も知らぬ・・・否、何者とも分からぬ存在だというのに。
 ただ望遠鏡越しにその姿を垣間見ただけの青年を、なぜこうも気にかけてしまうのか。
 なぜこのように心を掻き乱されるのだろうか!
 息も出来ぬほどに。
(なぜ、こうも胸が苦しいのだ・・・)
 すっかり血の気を失い、苦渋に顔をゆがめながら上着の胸元をぎゅっと握り締めるシラーを、ヒースは言葉を失って愕然と見つめた。
「・・・」
 そんな兄の様子を、ヒースは初めて見る。いや、この城のいったい誰が、シラーゴート王子のそんな姿を見たことがあろうか。豊かで平和な、強大なるユーフィール王国の幸福の象徴ともいえる王太子の姿を。
  温和な彼の、穏やかな微笑以外の表情など微塵も想像しなかったものだ。



 おもむろに、表情を消してヒースは静かに口を開いた。
「―――会わせて差し上げましょうか?」
 小さな、しかし普段の飄々とした弟になく低い真剣な声であった。
 そこまで思い詰めるほどならば、と。
 突然の弟の言葉に、いまだ苦しげに眉間をしかめたままのシラーは胡乱に顔を上げた。
「・・・なにを、言って」
「兄上を、あそこにお連れして差し上げましょう、と言っているのです」
「馬鹿な。そのようなこと、できるわけがない」
 塔の入り口の扉までならば、可能だろう。以前にシラー自身、訪なったことがあるのだから。
 だが、そこまでだ。扉の前には錠前よりもはるかに堅固な「王命」を受けた騎士がいる。
「無理に決まっている・・・」
 自嘲気味に否定したシラーに、しかしヒースは口の端を僅かに吊り上げて応えた。
「いいえ、どうぞお任せください」
 私が、無理を通して差し上げましょう、と。







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