第3章 10



   「」が異世界語・『』が日本語



 眺めていた窓の、遠くを飛んでいた鳥たちの集団がふいに乱れたようだった。
 突風にでもあおられたかと無意識に小首を傾げた総司の様子に気付いたのだろう、背後から少年が声をかけてきた。
「どうしましたか、なにか見つけましたか?」
 リオという、名前だけしか知らぬ総司の世話係らしき少年は、総司とは言葉が通じないというのになにかと話しかけてくる。
 つい先ほどまで少年の手によって総司の清拭が行われ、床に散った湯や洗髪粉を片している間に、総司は寝台を降りて窓辺の椅子に腰かけていたのだった。
 そして、空の様子に気がついた。
 手拭を手にしたままリオは総司の横にやってきて、身を乗り出すように窓枠に手を突いて彼も空を眺めた。
「あの鳥は・・・ああ、陛下が鷹狩りをしていらっしゃるんでしょうね。とても立派で、美しいでしょう。あんな大きな鷹を私は他に見たことがありません」
 リオの指差した先に、悠々と翼を広げて空中を滑るように旋回している大きな鷹の姿があった。
 その大鷹を指して、リオは総司に向かって話しかけているのだが、当の総司は無表情のまま、リオの指差した鷹とはべつに遠くを過ぎる鳥たちの群れのほうへ視線を向けていた。
 リオの言葉などまるで興味がないというその態度に、少年は小さく肩を落とす。
 言葉が分からないのだから、仕方がない。だけど、やはり多少はがっかりする。
 総司に気付かれぬように溜め息を殺して、また手桶を片付けに後ろに下がった。
 清拭の際にいつも二つ用意される手桶の湯は、また四階の王の浴室の排水溝まで捨てに行かねばならない。そんなに大きな手桶ではないが、さすがになみなみ湯を注ぐとリオの手では一つずつしか運べず、必然、塔と浴室を往復しなければならなく作業は一人で行うには大変な重労働であった。王の訪れる前後や、その王による行為で必ず発熱する総司のために清拭は一日に二度行われることもある。総司の世話を始めてからというもの、リオの腕や脚には筋肉がついた。たくましくなるのは、嬉しいことだが。
『・・・ありがとう』
「えっ?」
 かかった声に、跳ねるように顔を上げると、総司は逆光を背にリオを見ていた。それは、何度か耳にして、正確には分からないが感謝の言葉だろうと推測しているものだった。
 清拭の礼を、総司はリオに述べたのだろうか。
「いいえ、いいえ! 仕事ですから!」
 嬉しくて、思わずにっこりと笑顔になる。腕や腕に筋肉がついて王のようにたくましく男らしい体格になるよりも、青年からその言葉をもらえることが、今のリオにはなによりも喜ばしいことだ。
 総司はすぐに顔を背けてまた窓の向こうに視線をやってしまったが、リオの気分はしばらく上昇したままだった。




 キラキラと、陽光を照り返して青い湖面が宝石を散りばめたように目映く輝いている。
 窓のガラスにコツンと額をくっつけて、その様子を総司はただじっと眺める。
(いい天気だなあ・・・)
 自分が死んでからどれほど経ったか。日にちの感覚はすでになくなっているが、何ヶ月かという単位が過ぎているだろうと思うわりに、室内の気温にあまり温暖の差がないようだった。
 時折り雨は降るが、台風の時のようなひどい豪雨は見たことがない。
 死後の世界には四季や悪天など関係ないのだろう。
(キレイなところだ)
 自分は地獄に堕ちたと思っているのだが、それにしてはあまりに穏やかな美しい自然の景色が外に広がっている。
 漁を営む小船を浮かべる大きな湖。それを囲むように緑の林が広がり、その向こうには街らしい屋根も視界の端に見えていて、それらがいずれも低い位置にあることから、総司の今居るこの塔が、他になく高い場所にあるのだろうと思われた。
 自分が働いていたビルの屋上とならば、どちらが高いだろうか。
 そういえば、オフィスの窓から外を眺めたことなんて、何度あっただろうか・・・?
 窓のすぐ向こうには、道路を挟んで同じような証券会社のビルが建っていた。
 空などほとんど見えないし、ましてや地面は黒いアスファルトに覆われいてる。オフィスの中の観葉植物だって、じつはよくできた造り物だと知ったのは、入社後一年も経ってからだった。
 キーボードを叩く音と、電話の着信を報せる電子音と、顧客への営業にかしましい社内の喧騒と。
 仕切りのない広い事務所内に、所狭く並んだデスク、蓄積した書類、壁一面の味気ないスチール製のファイル棚。
 ついこの間まで、それらに囲まれて生きていたのだ。
 だが今、総司は死んで、この狭い塔の小部屋に押し込められて。
 初めて自由に解放された。



 いつものようにぼんやりとしたま窓辺を動かないでいると、いつの間に来ていたのか、マーシュという青年が総司の側にやって来ていて、総司に言葉を教えるための教書を開いていた。
 ガラス窓に映る青年の姿をちらりと見やる。総司の近くに椅子を引き、足を組んでその上に開いた本を載せたその姿勢は、相変わらず硬質なまでに凛としている。
 教書といっても子供向けらしい薄い絵本で、果物や花や動物などが描かれているだけのものである。
 最初は難しい書籍をいろいろと積み上げて読み聞かせようと試みていたマーシュだったが、総司のあまりの無関心に、ここしばらくはこの絵本で単語を教えていく作戦に切り替えたらしかった。
 静やかな声音が白い指先に示された絵を何度も繰り返し説明する。最初、お互いの名前を教えあったときに有効だったこの手を応用しようというのだろう。
 それでも、総司の視線が絵本に向くことがないので、あまり功を奏しているとは言えないのだったが。
 大仰な溜め息が聞こえて、気がつけばマーシュは絵本を閉じ、総司と同じく窓の外の景色を眺めていた。
「・・・昨日より陛下は鷹狩りのため、タロン離宮に滞在されるそうです。半月後には新緑祭もありますし、お忙しくなられるでしょうからこちらへお渡りになることもしばらくないでしょうね。私は、また明日も昼間に参りますが」
 青年の足首まである紺色の長い上着が、さらりと衣擦れの音を立て、そして窓辺を離れる。
 冷ややかに総司を見下ろしてなにかを告げたようだったが、それは総司にとっていまだ異国の言葉のままで、彼の耳に届くことはない。
 結局、今日も総司が青年に直接視線を向けることはなかった。


 マーシュが離れるのと入れ替わるように、背後から遠慮がちに肩を叩かれ、振り返るとリオが直ぐ近く、壁際に置かれた机を指差していた。小さな部屋なのでその机はちょっと手を伸ばせば届く位置にある。
「緊張を解す効果のある香草茶です。先日まで寝込んでいらしたから・・・。香りを嗅ぐだけでもくつろいだ気分になれるんですよ」
 にっこりと微笑んで、白磁の茶器から漂う湯気をすくうような手振りを総司に見せる。
 少し離れていても漂ってくる青々とした香りは、総司のために用意されたものだろう。
 リオの言葉は分からなくとも、その身振り手振りから、お茶の香りがいいとかそんなことを言っているのだろうと推測する。『ありがとう』と礼を述べれば、少年は照れたように小さく微笑んだ。その態度はつまり、いつも癖で出ている総司の短い言葉を彼は正しく理解しているということだろう。総司にとって彼の言葉はまったく未知のままだというのに。
 根が、素直な子供なのだろうと思う。そして聡明だ。
 彼の行動を見ていて、自分はどうだったろうと省みる。
 真面目、というより度が過ぎて愚鈍な子供ではなかったか。平凡の域を少しも出ない、融通の利かない子供。面白味もない。
 積極的に社交を求めないくせに、かといって和から外れて疎まれるのを畏れるような。
 口癖に謝礼の言葉がついて出る総司は礼儀正しいのではなく、それは他人へのおもねりが無意識に現れているせいだ。
 喜怒哀楽をあからさまに面に出すことも少なかったように思う。
 主張もなく、欲もなく、無理を押し付けられても断れない―――断るすべを知らない、そんな曖昧な性格。
 そして自分はそのまま少しも成長できなかったのだろう。


 だからだ。
 だから、総司は結局、騙され、裏切られた。
 人の持つ二面性を見抜くことができなかったのだ。
 親切心と、その下心と。
 優しい言葉の、態度の、そこに潜む真実を―――。



 この、石でできた小さな部屋はとても安心する。
 リオは甲斐甲斐しく総司の世話を焼くが、それは押し付けがましいほどではない。
 マーシュという青年はなんとか総司に言葉を教えようと躍起になっているようだが、それとて親切からではないのだろう。むしろ冷ややかとした表情に、総司への気遣いはまったくない。
 度々訪れる老医師だって、淡々とした治療の態度はそれが彼の仕事だからだ。
 ゆえに、総司は彼らが側に寄っても平気でいられる。
 彼らの顔色を、総司が伺う必要はないのだから。表に見える彼らの表情が、態度が、総司に対する思惑のすべてだ。
 上等な翡翠の宝石を瞳に持つ、あの壮年の男だって同じだ。
 くつくつと笑いながら総司を穿ち、背後から脚を割り開き、乱暴に体重を乗せてくるあの重苦しい行為。
 総司の身体を痛めつける為だけの一方的な交合で、彼は気ままに、自由に総司の身体を卑しく貶め、弄ぶ。
 その陵辱に裏などあるまい。すべては総司への弾劾なのだろうから。


 ああ、ここは、なんて楽なんだろう。


 目を瞑り、そっと細く息を吐く。
 人の心を疑うのは、とてもしんどい。
 この小さな部屋に閉じ込められて、ようやく死ねたんだなとしみじみ思う。
 ここでは、総司はなにも考える必要がない。
 誰にも応えなくていい。
 真も嘘も必要ない世界。
(ようやく来れた・・・)
 だから総司は今、とても、こんなにも心が軽い―――。








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